見出し画像

Episode 614 大きな主語は危険です。

ASDと診断されて、私自身の何がずれているんだろう、何が歪んでいるんだろうと考える日々が長く続きました。

この言葉は、2018年10月の、私のブログ記事に書かれたものです。
『歪みなんかじゃないのです。』と題したその記事には、ASDとして「通常に発育/発達できなかった私の成長」そのものは、社会的には順調ではなかったかもしれないけれど、自分の持ち合わせる能力を使って成長しようとしたこと自体は、他の子どもたちと同じように順調だったのだろう…という思いを込めたのです。

ただ、「心の理論」の習得が弱かった私の対人コミュニケーション能力は、あなたと私の関係の中で「おたがい様」というような対等な立ち位置の関係に不安があり、この関係を上手く作り維持することが出来ずに、高圧的になったり完全に言うがままの受け身に回ったりすることが発生することが多いのです。

この対人コミュニケーション能力の弱さが、日常の社会生活で大きな問題を引き起こすことがある…それは事実です。
このブログシリーズには、そのような問題の、私の具体的な事例について多くの記事を掲載しています。
社会生活を送る上で、私の「できない」を原因とする諸処の問題を否定する気はありませんし、改善できる範囲での改善努力もするつもりでいます。
その上で…です。

「普通」を基準にした時、普通の言動が取れないのは「悪意」とされ、その悪意のある異常な行動に対して「倫理」が働かないことに「歪み」と表現されるのだと思うのですよ。 
一方で悪と認識されないから倫理で制御が効かないものに対して「歪み」と表現されるべきなのかについて、私は否だと思うのよ。

自分が悪意を持って倫理規範を犯して加害をする行為を歪みというのなら、悪意のない「業務上過失DV/モラハラ」を「認知の歪み」と表現すべきなのか…ってことね。 
もちろん、DVやモラハラを正当化するつもりはないし、ダメなものはダメなのは当然なのだけど。

このツイートを100%真に受ければ、悪意無く正義感で行動すれば殺人も傷害も全て「業務上過失…」になってしまうワケで、私はそれを是としているのではないのです。
言いたいのは…「認知の歪み」という言葉の適応範囲が、「社会一般から見て非定型の思考全般を指すことへの残酷さ」は考慮される必要があるのではないか…ということです。

冒頭で引用した過去記事の言葉は、「認知の歪み」という表現が「ASDである私の成長そのものの否定」に繋がってしまうことへの悩みだったワケです。
精いっぱい自分の能力を駆使して生きようと努力した結果が「非定型の思考」で、それを「認知の歪み」という一言で社会からバッサリと切り捨てられる無念さは…どこで成仏させれば良いでしょうかね。

ASDとして非定型の思考パタンをナチュラルに発動してしまう私は、ナチュラル故に非定型の自覚がありません。

ですから、私の行動や考え方が「社会的に困ったことだ」とあなたが思うのなら、指摘してくださることは有り難いのですよ。
ただ、それは「あなたと私の関係」で語られるべきハナシで、「ASDと社会」という大きな主語の全体枠で語るものではないように思うのです。

ASDとして生まれ、認知に独特の特性があり、それが結果としてトラブルを起こしてしまうことは、多くのASD当事者に共通の悩みなのかもしれません。
でも、私の悩みとあなたの悩みは同じではないし、「あなたが相対する誰か」と「私が相対する誰か」は同じではないのです。
それを「ASDの認知の歪み」という言葉で一般化する危険性は理解されるべきだと私は思うのです。
これは刑事事件の容疑者が発達障害(神経発達症)者だった…という報道スタイルと共通の「大きな主語」で語る危険性のハナシでもあります。

ASDを語ることが多い私としては、主語の適応範囲に注意する、そんな自戒を込めた注意喚起が必要なのだと、そんなことを思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?