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Episode 710 それは「冷たい」ではありません。

先日のこと、X へのポストで「発達障害者のグループホーム」があれば良いね…という投稿を見かけたのですよ。
詳しく存じ上げない方の投稿でしたので、私は当然、その発言がどんな背景や思いを持ってなされたものなのか知らないのです。
ただ、その短い文章から触発された「私の思い」と言うのは当然あって、そこからちょっと自分の思うところを話したくなったりするワケです。
X のような短文型SNSには、このようなことは「よくあること」なのでしょう…が、コレが原因のトラブルも多く見受けられます。
「ある部分だけを切り取って意見する」ことで、ポスト主(…という表現で良いのだろうかわかりませんが)である私の意図と異なる方向へハナシが向かってしまい、苦い思いをしたようなことがある方も多いのだと思います。

私は冒頭で話題にした「発達障害者のグループホーム」という言葉「だけ」を聞いて思う、当事者同士の関係性について、「自分の経験」をお話しします。
この話は私の思うハナシであって、私が話すキッカケとなった投稿とは一切関係ありません…と、予め断っておきます、さて…。

私は本州日本海側の政令指定都市で、発達障害者の自助会を主催しています。
今月の会は8日…月に1回のペースで会を重ねて通算55回になりました。
つまり、会をスタートさせて4年半が経過したことになるワケです。
他所の自助会の事情は分かりません…が、ひとつの地域で継続して4年半とか、恐らく長く続いている方だと思います。
ただ、自助会運営の「危機」がなかったか…と言えば、「そんな事はない」ワケですよ。

では、どんなことが自助会運営での危機になるのか…と、言うことですが、それは主催者を含めて参加者の距離を近づけようとすることによって起こる、それ以外の理由はありませんでした。
具体的に言えば、親睦を深めようと懇親会を企画するとか…そう言うことです。

自助会という場所には、何かしらの理由がないと参加しようと思わないのだと思います。
大概の場合、上手くいかない「何か」を抱え、それが何なのかわからないことが多い、だからこそ何かを求めて自助会に参加するワケです。
ここで「自助会に何を求めるのか」ということが問題になるワケです。

結論から言えば、自助会は「自助」、自らを助くだから、誰かが助けてくれるワケではないのだと私は思っています。
だから、もしもあなたが自助会に「私の悩みの理解」や「私の悩みの解決」を求めるのなら、それはきっと期待外れになるでしょう。
つまりね、私の悩みを自助会の空間に投げて、それをみんなで聞いて、他の方の反応や意見を受け取ることで自分の理解を深めることに意味があるのね。
「私の悩みの理解」をするのは自助会ではなくて私、「私の悩みの解決」をするのは自助会ではなくて私なのですよ。

その一方で、自助会に「私の悩みの理解」や「私の悩みの解決」を求めると言うことは、つまり「私の悩みの共有」を求める…ということになるのね。
ところが、人の理解は生きてきた環境や経験によって同じようにはならないのよ。
あなたが思っている様な悩みを「そっくりそのまま同じように感じる」なんて、あり得ないワケです。
そうすると、あの人は理解してくれた、この人は理解してくれない…と言うようなことが起こるワケ。

個人的なレベルで共感できる仲間がお互いを認め合うことに何の問題もありません。
ただ、それを「組織」という多様な人がいる中に求めれば、わかり合える人同士でのグループができて、全体として平等感を欠くことになりかねません。

つまり…お互いの親睦を深めるつもりの親睦会が「共感」と結び付いた時、自助会としての公平感を損なう可能性があってね。
あの人は懇親会にも参加してくれた「仲間」だし…という発想は危険。
何故ならば、仲間という発想は、共有/共感の感情と隣り合わせだから。

お互いにフォローし合う関係性の構築ができるのなら、「仲間」は強力な味方になるし、自分を高める戦力にもなる…ただし。
そのベースになる部分が「関係性の共有/共感」だとしたら、それは危険だと思うのです。

プロ野球の選手たちが強力なチームを目指すのは何故か…と考えたときに、そこのベースにあるのは「関係性の共有/共感」ではなくて、「価値観の共有/共感」ですよね。
チームの勝利という共通の目的に向かう「価値観の共有/共感」のもと、チームとしての関係性が生まれるワケ…この順番は重要です。

振り返って自助会のハナシです。
自助会というのは「自助」ですからね、チームとしての達成を目的としているワケではないのです。
ですから、参加する方も当然、チームの目標達成を目的としていません。
そこに親睦という「チーム性」が高い項目を放り込むとどうなるか?

冒頭に戻り、「発達障害者のグループホーム」という発想に感じた、私の不安感の正体は何か…と問えば、近い距離感で生じる「チーム性」の感覚は、チーム共通の問題解決をクリアする組織でないと逆効果になる危険性だと思います。

お互いの弱点を把握した上で「チームとして目標を達成する」のならば、それはそれで良い…ただし、目標を達成した時に解散するか、次の共通の目標を明確に設定するかの選択は、恐らく必ずその「チーム」に迫られることになるでしょう。
もし「チームとして目標を達成する」ことが主題でないのなら、距離感の近いパッケージでの活動は、それを仕切る強力なリーダーシップがないと、かなり難しいだろうと、私の自助会運営の経験から思うのです。

私にはその強力なリーダーシップを取る能力はありませんし、あったとしてもそれを自助会で発揮するつもりはありません。
何故ならば、自助会は「自助」の場で、自らの気付きこそ最大の宝物になると思うから。

自助会運営で重要なのは、その自助会で得る宝物を取り上げないようにすることかな…と。
そう考えた時、適度に距離を置き、深入りしないことの重要性が見えてくるだろう…と。
距離を置くのは「冷たくあしらっている」のではなく、他者との依存関係にならないようにする最も簡単な方法だから…と、そんなことを思うのです。

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