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Episode 584 「いたちごっこ」の関係です。

いたちごっこは、江戸時代後期に流行った子供の遊び。
二人一組となり、「いたちごっこ」「ねずみごっこ」と言いながら相手の手の甲を順につねっていく。両手が塞がったら一番下にある手を上に持っていき、また相手の手の甲をつねるという終わりの無い遊びなので、転じて「埒があかず、きりがない」ことも指すようになった。現在では双方が同じことを繰り返して物事の決着がつかないこと=堂々巡りの状態をいう。

前回は「ASD×定型のカップルが陥りやすいトラブル」は、自閉の正体である「私の気持ちのコントロールの困難さ」という根本的な問題よりも、それを指摘され咎められることが多かった時期(子ども時代~思春期)に覚えた「自らの安全を守る方法」としての副次的な外モードという現象との相性が悪いことによるのではないか…というお話でした。

その「外モード」とは、あなたと私の関係の「摩擦」になってしまう私の自我を折り曲げることが出来ないから、自我の代わりに「誰もが納得できる既定の価値観」を盾にして自分自身を守る方法だと私は思っています。
だからその「拠りどころとすべき価値観」は、必ず正解である必要があって、間違いのない正解だからこそ安心して盾になる…ということです。
ここが非常に重要なチェックポイントになるのだと私は思っています。

ところで、私とあなたがどんなに仲良しでも、同じことを考えていることはごく稀なワケです。
ただ、頭で分かっている「そんな当たり前のこと」を、自分自身のココロにに落とし込むのは至難の業なんですよね。

ではなぜ、あなたが私と違う意見や感情を持つことにそれほどまでの不安を感じてしまうのか…と言えば、私の意見は「社会一般常識を担保にした正解」であって、正解である私の答えとは別の意見をあなたが導き出すことに不安を覚えるからだ…と、思うのです。
ましてあなたが私にとってのかけがえのない存在であればなお更のこと。
そこには、大好きなあなたが私と違う「正解」を導き出す衝撃と不安があるのです。

前回の記事に戻れば…
「私はあなたが好き」を自覚しているのなら、
「既存の価値観」に逃げず、
「どうしたらよい?」をストレートに聞く
…という、「私はあなたが好き」という自覚を足元に、その気持ちから言葉を発することを心掛ける方向性の示唆ということになるワケですね。

ただ、この一歩を踏む出すのには、相当な覚悟とパワーがいるのです。
だって、それはつまり私の安全を守るために編み出した外モードという鎧を脱ぐことになるワケで、「丸腰の状態で人と正対することで傷付いた過去」と正面から向き合うことにもなるワケですから。

丸腰の自分の弱点と向き合うには、相当な覚悟とパワーが必要。
だから、つい「既存の価値観」に逃げたくなるワケですよね。
そして逃げて縋った価値観と私のココロが100%シンクロすることは、ほぼないワケです。
そこを指摘される…。

ASDの人に限らず、自分自身が自分の弱点と向き合うには、時間と強度の管理が必要なのだと思います。
タバコを「禁煙外来」をつかって止めるときに似ているかも知れません。
皮膚からニコチンを摂取できる「ニコチンパッチ」を貼付け、口に咥えることへの依存を減らして、その上でパッチのサイズを小さくしてニコチンの血中濃度を下げて行く…といった一連の過程があるのですよ。
気合いと根性で禁煙出来る人はごく稀、100%の意思を持ち続けるのは、相当な精神力を必要とするワケですよね。

禁煙外来で言われることは「タバコを吸いたくなったら吸ってもいいよ」ということと、「治療の結果、禁煙に成功するのは半分ぐらい」ということです。
禁煙治療中だから喫煙してはいけない…ではないのです。
でも「禁煙治療中なのに喫煙して!」と指摘されたら、ガッカリしますよね。

勉強しようと思った瞬間に「勉強しなさい」って言われたら、一気にやる気を失った…みたいな経験をしたことはないですか。
苦手を理解し「何とかしよう」…と試みる人に対する指摘の難しさというのがあると思うのです。

前回は「ASD側の自分の気持ち」を取り上げたのですが、「パートナー側の自分の気持ち」もあると思うのですよ。
あなたは私と一緒に生活していこうと思うのですか?
その為にどうしようと思うのですか?
あなたが自分の快適な生活のために、表に出るASD的な言動を指摘していくだけでは、禁煙外来の「禁煙治療中なのに喫煙して!」という言葉と変わらないのだと思います。

もちろん、ASD側の「自分の気持ちに立つ」という努力があってこその話しです。
その上で必要なのは「パートナー側の、ASDの私と共に生活していく自分の気持ち」だと思うのです。

この部分が欠けてしまうと、ASDの私が「既存の価値観に逃げて反省する」を繰り返す「いたちごっこ」が起こるのだと感じます。
本当に必要なのは、「既存の価値観に逃げて反省する」行動を如何に減らしていくのか…ということ。
それでもあなたと共に生活したい…という気持ちこそが「自分の気持ちに立つ」原動力だとして、その気持ちを維持するための環境を用意することこそがパートナーの「ASDの私と共に生活していく自分の気持ち」から生み出される支援なのだと、私は思うのです。

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