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Episode 568 相対基準がデフォルトです。

今回はすの子(@sunocots)さんのこのツイートから。

このツイートは以下、このように続きます。

私、偏差値の概念は理解していたのですけれど、それをどのように受け止めて、何の基準にすべきかがよく分からないのですよね。
例えば志望校があったとして、そこに入学したいと願ったとき、自分が意識すべきは「平均よりどれだけ上か」ではなく、「どれだけ理解できているか」だと思っていて。

で、その志望校に入れたとしても、教わることを理解できていなければ意味ないよなーなどと思っているのですよね。

そして勉学以外にも教養を身につける場はあるだろうと推測できること、そして私自身が無学であることも影響するのですが、「謙遜や自虐だとして、どの程度のものなのか」と判断できないのですよ。

えーとですね、そもそも「(学力)偏差値」なるものは、工業製品の品質管理で使用する製品品質のバラツキに関する指標の応用なのだと言うのが私の認識です。

工場のライン管理をやっていると、必ず「不良品の発生を抑えること」が品質を安定させ収益を向上させるという、当たり前の事象と向き合うことになるのです。
工場のラインと言うのはですね、製品を設計した通りのパフォーマンスで狂いなく仕上げるのが仕事なのですよ。
高品質に越したことはないのですが、単純に良いものを作ればよい…と言うのとは違います。
品物には必ず「コストに見合うパフォーマンス」を要求されるワケで、必要以上にパフォーマンスを上げれば、もっと高額で売れるものを安易に廉価販売することになるかもしれません。
買う側からすれば「良いものを安く」が一番ありがたいのですが、商品を作って売る側としては「可能な限り高く売りたい」が本音です。
だって、そうやって売った商品で収益を得て、給料をもらっているのですからね。

工場ラインで言うところの高品質とは、高すぎず低すぎず「狙った品質でピタリ」と作る技術のことでして、誰も真似できない最高の技術…は、求められないことが殆どです。
そんな名人芸は「ハンドメイドで一点物の工芸品」のハナシです。

ハナシが逸れましたね…。
その工場で作られた製品の精度を調べる指標が「標準偏差」と呼ばれる指標なのですよ。
一定の基準からマイナス側にはみ出したものは不良品として撥ねられて工程ロスになります。
また、プラス側にはみ出したものは、必要以上に材料費などが掛かっている場合があり、歩留まりを下げます。

その辺のカラクリについては過去の記事を読んでいただくとしてですね…。

学力偏差値って、「テストの点数を平均からどのくらい離れているか」という標準偏差の計算をした結果の数字なんですよね。
それを分かりやすく平均を「50」という数字にした…そこからのバラツキ(平均からの距離)を数値化したもの…それ以上でもそれ以下でもないのですよ。

例えばですね…「高校受験の偏差値」と「大学受験の偏差値」は違うのですよ。
大学受験の偏差値の方が低く出る人の方が圧倒的に多いハズ…。
それは「その試験を受けた人」という分母になるレベルが違うからです。
誤解を恐れずに強い言葉で言えば、高校受験用の偏差値は義務教育である中学生が有無を言わさずに「ほぼ強制的に受けさせられたテストの点数」であるのに対し、大学受験用の偏差値は「大学を志すものが自らの意思で受けたテストの点数」だからです。
分母になるレベルが上がれば平均点も上がる、その平均点の位置からの点数バラツキの指標ですからね、当然って言えば当然なのですけどね。

それぐらい、その母体の集団によって偏差値が表すものは変化するワケですよ。
工業製品の場合なら、同じラインの機械も作業者も限られてますからね、出てきた数値を眺めて問題点を推測し、仮説を立ててカイゼンを試みる…いわゆるPDCAサイクルが生まれるのですが、学力偏差値の場合ってどうでしょうかね?
毎回同じ人が参加するとは限らない、テストに参加する人数も出題範囲も、それの何を得意とするのかという参加者の得手不得手が毎回変わる中で、どれだけ信憑性の高いバラツキに関しての数値が得られるか?
まぁ、その数値に信憑性があるというところは譲歩したとして、学力以外のものが測れるワケではないですよね。

すの子さんのツイートに戻ります。
これは恐らく「みなしできる」の罠のハナシです。

勉強ができることで、他のことも「普通」に身についているだろう…と思われてしまう現象のことを、私は「みなしできる」と呼んでいるのです。
ここで指す「普通」とは、これを読んでいるあなたが考える「あなたの基準」のハナシです。
これが出来るならそれもできるだろう…と推測して判断するというヤツです。

本来は「相対的な判断基準」であるものに、社会的に絶対的であるかのような確固たる地位を与えることで本質を見失うことがあるのではないか?
定型と呼ばれる「発達の程度に大きな凹凸がない人たち」がファジーに作りあげた価値観からいち早くこぼれ落ちたのは、発達障害と呼ばれる「発達の程度に大きな凸凹を持つ私たち」だったワケです。
ただ、こぼれ落ちて気が付いたことには、意外にも「私たちの落ち度」だけではなく、定型社会で通用している「価値基準の不安定」もあったのです。

私はこの基準がダメだとは思っていません。
それが成立しうる条件が「定型一般の方には備わっていた」から通用しているのですから。
それを定型的な相対的判断基準として理解して、「凸を見て凹をスルーする」「凹を見て凸を信じない」は、定型一般の基本設定と思っておけば、ムダにイライラしないで済むかもしれない…そんなことを思うのです。

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