見出し画像

「気付きの断崖」から飛ぶのです。

「ダニング=クルーガー効果」という良く知られた認知バイアスがあります。

ダニング=クルーガー効果(英: Dunning–Kruger effect)とは、能力や専門性や経験の低い人は自分の能力を過大評価する傾向がある、という認知バイアスについての仮説である。
また、能力の高い者が自分の能力を過小評価する傾向がある、という逆の効果を定義に含めることもある。

wikipedia「ダニング=クルーガー効果」より

その「認知バイアス」を表した、こんな曲線もまた、よく知られていますよね。

キャリアコンサルタント大辞典
ダニング=クルーガー効果とは?」より

この認知バイアスに対しては否定的意見も多くあるのですが、私自身としては図に示された一番左側の頂点…「馬鹿の山」を経験することが「ダニング=クルーガー効果」を認知バイアスとして意味があるものにする様に感じるのです。
つまり私は、「馬鹿の山」があるからこそ「絶望の谷」という谷底を感じることができるのですよね…っていう意見なのですよ。

私の体験した「Autism の自覚」というのは、この「ダニング=クルーガー効果」である程度説明できる気がするのですよね。
そうですね、「自覚の山」から「気づきの断崖」に追い詰められて「絶望の谷」に落ちるイメージ…でしょうか。

私は Autistic (自閉の民) が、自らの意思だけで自分自身の Autism 性質に気がつくことは不可能に近い…と思っています。
何と言いますか… Autistic が自らの Autism 性質を見つめ直し、自己理解を進めて行く過程と、Autistic のパートナーなどの近親者や支援者が、彼らの Autism 性質を見定めて他者理解を進めて行く過程は、自他の入れ替えがあるだけで同じことをしているのだ…と思っているフシが、私にはあるのですよ。

Autistic (自閉の民) が自らの Autism 性質を理解するためには、その性質の比較の対象となる NeuroTypical (定型発達者) の存在が必要なのですよね。
だから Autistic の自己理解と、NeuroTypical への他者理解がセットになるとすれば、裏を返せば Autistic を理解したい NeuroTypical は、NeuroTypical である自らの理解と Autistic への他者理解もまた、セットになるワケですよ。

私が思う私の「自己理解」がどれほど進んでいるのか…は「まだまだ道半ば」でして、「気付きや発見」が途切れることは、今のところありません。
ただ、その「気付きや発見」の質は、Autism の診断を受けて内省を始めた頃とは変わってきたように思うのです。

初めは、やはり…自分自身の「Autism 探し」です。
自分自身にあったエピソードを、本などから得た「ASDの特徴」に当てはめてみる…みたいなヤツですね。
そうすると、まぁ…あんなことやらこんなことやら、イロイロと出てくるワケですよ。
本に書いてあった「ASDの特徴」に当てはまらない部分もあったのは事実ですが、それでも私が Autistic であると理解するのには十分な自己分析であったと思います。
それで、私は「自分の Autism 性」を理解した気になっていたのですよね。
それが「ダニング=クルーガー効果」で言うところの「馬鹿の山」…ということです。

ところが、どんなに「自分の Autism 性を理解した」と思っても、あなたとのコミュニケーションは一向に改善しません。
それはそうですよね…私は自分自身で「自分の Autism な部分」を理解しているだけなのですから。
そして気がつくのです…「自分の Autism 性を理解した」上で、どのように「NeuroTypical であるあなたとコミュニケーションを取る」かこそが真の課題である、という事にね。

ここに「気付きの断崖」という崖から谷底を見る瞬間が訪れるワケです。
Autistic 的な「ダニング=クルーガー効果」は、この「馬鹿の山」の端にある「気付きの断崖」から、自らの意思で「絶望の谷」に飛び降りられるか…という事だと思うのですよ。
それは恐らく、「馬鹿の山」から気付きを経ずに「絶望の谷」に転げ落ちる…ではダメなのです。

Autistic の自己理解の多くは、あくまでも「自らの Autism 性の理解」です。
ひと言で言えば「あるある」という Autism 性の発見でしかないワケで、その「あるある」をどのように NeuroTypical であるあなたに理解/共有してもらうのか…ということこそが必要なのですよね。
だから、私自身の自己探究だけでは「ASDの社会性」という問題は解決しないのですよ。

ここに、Autism としての私は、NeuroTypical であるあなたとの「埋まらない差」を理解して、その「埋まらない何か」を埋めずに共有/共存することを目指す必要が生まれます。
それこそが「絶望の谷」から「啓蒙の坂」への道のりで、その先にある「継続の大地」という『成熟した Autistic 像』へと導く過程なのでしょう。
そのために必要なのは、何が「埋まらない差」なのかを冷静に理解する Autistic からの NeuroTypical 理解であり、NeuroTypical からの Autism 理解なのだろう…と。

この大切な「気付きの断崖」から飛び降りることなく「絶望の谷」に転がり落ちた当事者は、定型/非定型を問わずして、「啓蒙の坂」に向かわず、「馬鹿の山」への登り返そうと努力する…違いますか。

発達障害をめぐる「あるある」は、そのハナシ自体がキャッチーであるので、とても理解がしやすいのです。
ただ、そのキャッチーな「あるある」からの「差を埋めよう」とうする努力に将来性はあるのか…は、疑問です。
結果として、社会性を持たせる方向性は、「医療モデル」をベースにした発想から脱却できずにいるように感じます。

私の思う Autism 理解を深める「ダニング=クルーガー曲線」には、横軸には知識/経験や時間軸ではなくて、ダイバーシティの理解度が入るのです。
こう考えると、何やら「ダニング=クルーガー効果」にも、それなりの説得力がありそうだと、そんなことを思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?