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Episode 495 根を下ろす土壌に感謝です。

自慢する気はないですが、私のこのnoteアカウントには500本近い発達障害に絡む私の経験やら考え方やらが既に書き散らかされているワケでして、それを掘り起こして紹介し直す作業を、私はTwitterで行っているんですよ。
発達障害に絡む経験は「時事ネタ」とは違うので、時間が経っても古くならないのです…もちろん、そこには「時代背景」というフィルタが存在するんですけどね。

書いてある内容は…全てをここで説明することは出来ませんから、読み返していただくとして、その内容は大きく3つの種類に分けられるのだと思います。
ひとつ目は、私個人が感じる発達障害に関係する当事者の特徴について。
ふたつ目は、当事者である私と社会との関係性について。
みっつ目は、当事者である私と身近な人との関係性について。
3つを横並びに併記するほどに、それぞれは発達障害の当事者にとって大きな問題であり、感心ごとになり得る重要なことではあるのですが、こと3つ目の「当事者である私と身近な人との関係性」については、障害を受け入れる土壌となる部分のように感じるのです、というのも…。

先日、私はTwitterで、こんな発言をしました。

今まで私は散々「ASDの自覚はスタートラインである」というメッセージを、このnoteアカウントの記事の中で書いてきました。
ただね、最近になって、このスタートラインに立った時に「心折れない環境という幸運があるのではないか」って、思うようになったのです。

私は(年齢的に)大人になってから発達障害(ASD)と診断された当事者です。
それ故に、扶養の内にあって親権で保護される立場で障害認定された方の立場や気持ちを十分に理解することは出来ません。
少なくとも、私はASDの当事者でありながら、定型と呼ばれる一般の方と同じように学校教育を受け、社会に出て、愛するパートナーと子どもに恵まれて、一般社会での挫折経験を繰り返しながら、曲がりなりにも「なんとか生活できている」ワケでして、この今の状況は私の努力「だけ」で勝ち得たのではないのだろう…と、もっと言えば「支えてくれたパートナー」の努力が八割がたなのではないか…と感じているのです。
「段取り八分 仕事二分」なんて言葉がありまして、パートナーの理解と協力が私を導いてくれたのではないか…それが全てだったと感じるのです。

残念ながら…私が「無自覚なASDであったころ」のパートナーへの言動は、「かなり酷かった」という自覚と反省があります。
でも、それが原因でパートナーが受けた「心の傷」を、私が自覚することで「チャラ」にできるのか…と言ったら、絶対に No なのですよ。

先ほどのツイートの続きです。
私はこのツイートで、定型さん側に「今までのことをチャラにしてほしい」と言うような譲歩を求めているのはありません。
「ASDの私の自覚に至り、それでも私と一緒にいてくださる部分を、ASDの私は理解して感謝する必要がある」…と、考えないと。
だって…散々「やらかした」後のスタートラインだよ、ASDの自覚ってさ。
自覚したから一緒に横に並んで「ここから共に歩き出そう」…なんて、ムシが良すぎるハナシだよね。

パートナーと私が「ここから一緒に歩いていく」上で、この過去に起因するイロイロを、今後の生活で気にする必要はない…と思います。
でもそれは「水に流してハイお終い」ではないのですよ。

ASDに気が付いて、生活を改めようとする私の努力は、わかってくれるパートナーの気持ちよって支えられているのですよ。
私ができる限りの努力を委縮せずに行えるのは、パートナーが今までのことを飲み込んだ上で私を支える…という環境の土壌があってこその話なのですよ。

私は、言わば「樹木」で、パートナーが用意してくれた土壌に根を下ろし、なんとか社会の空気を吸って生きているワケです。
生きていくために必要な「身近な人々」という土壌に感謝しなければなりません。
やってしまったことを反省しつつ、でも私は必要以上に「それに」触れないこと。
心の傷があることを覆い隠さず、でもあなたは必要以上に「それを」表に出さないこと。
そうしてくれるあなたに、私は心からの感謝をしなければならない…と、そう思うのです。

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