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Episode 499 欠損の自覚をするのです。

先日のnote記事で「障害者」の英語表記についてお話ししました
"person with disabilities" …直訳すれば「障害とともにある人」ということになります。
この障害というのは、定型・健常の方と比較して欠損した部分があるという意味合いになるワケです…つまり「欠損した部分を持ち合わせた人」ということですね。
前回の記事では、その「表記方法がもたらす文化の違い」が話の主題だったのですが、今度は「欠損の自覚」について考えたい…と思います。

私のようなASDは、定型の社会から見て「どの程度の重度」か…の問題はあるものの、全体として先天的障害として扱われることが多いのです。
先天的障害の難しいところは、「自分に最初からないものなので、何が問題なのか分からない」ことが多い…ということです。
こう思う理由はカンタンです…「ある」を経験したことがないからです。

先天的な障害でも、身体障害の場合は比較的理解しやすいかもしれません。
例えば「右手の欠損」があるとします。
右利きが多いこの世の中で、右手がないのはかなりの不自由です。
でも、右手がないから食事ができない…ワケではないのですよ。
使える左手を使って食事をする、それが生きる知恵なのです。

何かの事故で右手を失った方がいたとします。
右手を失ったことで食事を諦める…ワケがないのですよ。
右手よりは不自由な左手を使って食事をすることを考えるワケです。
あったものを失う…それは大変な思いをされていることでしょう。
右手があった経験があるから「左手だけの不自由」を痛感する、事故の後悔や不自由への苛立ちや…いろいろなものを乗り越えて生活する必要があるハズです。
その思いは否定できない事実なのです…でも。
先天的に「右手の欠損」がある方は、右手がないことがデフォルトなのです。
先天的に「右手の欠損」がある方は、右手がある「自由度」を想像するしかないのですよ。
定型・健常の方から能力的に劣るとされる「障害を持ち合わせている方々」でも、欠損に対しての理解はそれぞれだということです。

身体障害の場合、見た目や動作に制約が出たりすることが多いから、当事者からみても健常の方から見ても「具体的な差」を把握しやすいワケです。
それが精神障害・発達障害になった場合、身体的(外観・見た目)には正常に見える分だけ具体的な差を把握しにくいのだろうと思います。
更にそこに「経験している」か「想像している」かの差が加わる…ということです。

ASDの自覚とは、この「先天的なコミュニケーション欠損(自己完結)に気が付く」ということに他ならない…私はそう考えています。
それ故に、如何に定型の方の思考に寄せようとしてみたところで、真似をすることは可能でも、完全に習得することは不可能なのだと思っています。
つまり、定型の方の思考パタンを「経験している」のではなくて、「想像している」に過ぎない…と。

ところが…先天的障害の難しいところは、真似をしている実感がないことなのですよ。
自分自身に最初からないものは、最初から見えないし、それ故に使わないのです。
だから、定型社会で生きていく上で必要なノウハウを得るために、自分自身が持ち合わせている「使える能力」を駆使して「できること」をするのです。

改めてこの記事を。

先天的な障害をもつ私たちは、使える能力を駆使して成長したのです。
それは定型の人たちが、使える能力を駆使して成長するのと同じこと。

障害の自覚とは、私には(定型の方よりも劣る)能力的な欠損があり、欠損している部分を羨んでも使えるようにはならない…と理解することだと考えます。
仮に定型の方と同じような方法で「使えるようになった」ように感じるのは…残念ながら「想像して真似る」だということです。

自覚した障害者が考えるべきことは、無理して定型の方と同じように行動することではなく、自分自身に与えられた「使える能力」を使い、社会で無理なく生きていく方法を模索することです。
そのために重要なことは、自分は「何が得意」で「何が苦手」かを明確に把握して、使える能力を上手に使い、積極的に「苦手な部分の手助け」を求めるスタイルを身に付けることです。
そして手助けに感謝し、常に支援者(パートナー)の負担が最低限であることを意識することだと、私は思うのです。

発達障害の場合、見た目や性質上の問題で「欠損」の感覚が薄いのは構造的に「自他ともに仕方がないこと」だと思います。
だから定型に寄せようと努力してしまうのだと思います。
「発達障害を受け入れる」とは、"person with disabilities" の感覚を理解することだと私は思うのです。

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