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Episode 338 自転車の練習が必要です。

生物の種の保存とは、「強いものが生き残る」という厳しい掟があるのだと私は思っています。
それは力が強い、それは環境に強い…生き残れる遺伝子を残すために出来上がった有性生殖という男女の遺伝子の掛け合わせは、それだけを見れば理にかなった仕組みなのだろうと思います。
でも、人間は安定して種の保存ができる「文明」を手に入れた…。

私が「愛と性」に拘るのは、愛とは人間の社会が安定して繁栄できる社会性という土台があって初めて成立できる思考だと思っているからです。

発達障害は多くの遺伝要素があって、発達障害を持つ親からは発達障害をもつ子が生まれやすいというのは良く言われていることです。
もしも本当にそうであれば…遥か彼方の昔から、今でいうASDやADHDなどの発達障害を持つ人は存在していたワケで、それが表に出てこなかったのは当時の社会的な構造に理由があると思っています。
例えば、結婚制度は家と家の結びつきが強くて本人の感情は二の次だったとか、女性には離婚権がなかったとか、黙々と作業できるASD向きの仕事が数多く存在したとか…。

時代は進化して便利になったと思います。
以前に話題にしましたが、世の中の便利ってマジョリティがマジョリティの利便性を求めた結果に生まれる仕組みなワケですよ。
その結果、緩さの中に紛れる余地のあったマイノリティは、細かくなった利便性の網に引っ掛かってしまうのです。
それは高齢者が時代の波に乗れなくて取り残されてしまう類の話と変わりないと思います。

私が若かったころの恋愛観って、ちょうど「東京ラブストーリー」に代表されるトレンディドラマ全盛の価値観ですよ。
それは、今となっては「懐かしい」を含んでちょっと古い…。
その時代の価値観は社会的な基盤に基づいてゆっくりと変化していき、その時代に合った「愛」のかたちが提供されるのです。

人間の本能的な性と、社会に育まれた常識の上に成り立つ愛は、自転車の両輪のようなもの。
周囲とのコミュニケーションをとる中で社会性を身に付けていく…それは、愛しいものの形を理解していくことでもあると思うのです。

私の心配事は、このバランス感覚を体得できないことで生じてしまう「性的な倒錯」。
人間が社会性を持つことで隠してしまった性を、愛が表に出ることで繋いでいる。
旧態依然の愛の形が望ましいなんて思っていません。
でも、愛と性が自転車の両輪になっていないことで発生してしまう性的な暴走で、自他ともに傷つけてしまうようなことが起きてしまわないか…という心配は私の中で常にあるのです。
自分自身で自覚のある「発情期」がそういう心配を想像させてしまうのです。

なにも現代社会のモラルに忠実である必要はありません。
自分が傷つかない、相手も傷付けない…納得の上での話であれば、SMだろうが乱交だろうが、好きにやれば良い、個人の性癖に文句を付けるつもりはありません。
ただ…私のように「愛と性」が自転車の両輪だと遅れて気が付いた時、相手を傷付けていたかも、自分が傷ついていたかもしれないと後悔するようなことがないように…と思ってしまいます。

「発達障害は社会性の障害」…でもその社会に生きている以上、知らなかったでは通らないことがあるように思います。
世の東西を問わず、歌に唄われ小説で語られても語りつくせない「愛」は、定型者の世界でも難しいのでしょう。
社会性の欠如に乗じて、性を食いモノにする奴らも存在する…。
唯でさえ社会性を身に付けにくい私たちだからこそ、「察して」の世界観だけでは理解が不足するように感じます。
目を背けずに愛と性の話をしなければならない、私たちは自転車に乗れるように練習する必要があると私は思うのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/8/18

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