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Episode 552 努力の種類が違うのです。

先日のnote記事で、ディスレクシアには種類がある…というお話をしました。
「アルファベット」や「かな文字」のように発音を指定する文字の組み合わせで意味を形作る文字と、「漢字」のように意味を指定する形に発音を当てる文字では、その読み取り方に違いがある…というのが、「かな文字」が苦手な私の実感なのです。
ここから、「かな文字」は「漢字」よりも易しい…とする「一般的な認識」に疑問を投げかけたワケです。

ところで「漢字書取り」って、小学生の宿題の定番じゃなかったかな…と思ったのですよ。
読みと意味を書いて、漢字を10回ずつ書く…みたいなヤツね。
私はその「漢字書取り」が好きだったんですよ。
コレだと宿題が楽しく出来たのです。
ところがですよ、算数のドリルは大嫌い。
たかだか20問程度の計算をするのに1時間以上もかけて…まだ終わらない。
とにかく計算問題が苦痛で苦痛で仕方なかったのです。

どちらの宿題も一般的に見れば「基礎の習得/習熟」という同じ括りの学習内容で、反復練習による学習効果の定着を狙ったもの…だと思います。
でも、私の中では「明らかに違う内容」だったのですよ。

算数ドリルはひたすら四則計算の繰り返しです。
桁が増えようが小数点以下の数字があろうが、扱う桁数が多くなることで難易度は上がるけれど「基本的内容」は常に同じで、計算の精度と速度を上げることを求めるのです。
それに対して漢字書取りは、覚えるべき漢字の数が増えれば作業量と記憶量が正比例で増えるだけで、隣の漢字が覚えられなかったからと言って、今取り組んでいる漢字の記憶に影響するワケではないのです。
つまり、漢字書取りは「常に新しい文字に取り組む作業」であって、「精度や速度を上げる作業」ではないのです。

計算ドリルと漢字書取りをともに「基礎の習得/習熟」を目指す反復練習と考えるならば、私の計算ドリルの扱いは「できるのにやらないワガママ」に見えるでしょうね。
決してやって出来ない問題ではないのです。
やり方も理解しているし計算もできるのですよ。
だから、周りからは「サボっている」ように見えたのでしょうね。
でも、そうじゃない…私は算数の計算問題で、速度と精度を求められる理由が理解できなかったのですよ。

私は小学生のころから、ある意味で「ひねくれ者」だったのかもしれません。
意味が分かってしまったものに対しての興味はあまりない…だから計算問題は飽きてしまうのです。
その一方で、文章問題は設問に対して「式を立てる」という数学的な考え方が付いてくるワケで、この回答を導くための考え方を理解することは好きだったワケです。

同じような「基礎の習熟」に見える計算ドリルと漢字書取りですが、受けとる側の感覚によっては違う種類の問題になるのです。
これを小学生の私が上手く説明できるだけの「何らかの技術」を持ち合わせているわけでもなく、漠然と「好きと嫌い」「得意と不得意」だと思っていたのは、恐らく間違いないことです。

同じように見える反復練習でも、私のような得意と不得意があるようなら、得意と不得意を分ける「何らかの理由」が存在するのだと思います。
反復練習が苦手な子に対して「集中力がない」と言うのはカンタンです。
でも本当に大切なのは、その「集中力が保てない理由」を知ることなのだと、私は思うのです。

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