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Episode 623 線の向こうは限界です。

前回の記事「埋もれる自閉があるのです。」が意外なほど閲覧数を伸ばしていて、書いた本人が驚いています。

閲覧数が伸びた理由はこのツイートです。

村中直人(@naoto_muranaka)先生が、前回の記事を紹介する私のツイートを引用RTしてくださいまして、その反響の大きいこと大きいこと…。
「潜伏型(≒良い子)ASD」の認知を高めるべく、「ここぞ」とばかりに喜び勇んで連続投稿する私の姿は滑稽そのものなのです。

まぁ、そんな自虐は放っておいてですね、「潜伏型(≒良い子)ASD」だと自認する私は、以前から自分の過去に「自分の意見を言う」機会がナチュラルに与えられれば、もっと早期に自分の特性に気が付いただろうし、気付いてもらえただろう…などと思うことがあったのですよ。
ただ潜伏型(≒良い子) ASDを「早期に発達障害であると気が付くことで発生するメリット」がある一方で「早期であるが故に発生してしまう大きなデメリット」もある…と私は思っているのです。
障害者という枠が、ASDである私を閉じ込める可能性…とでも言いましょうかね、そこには定型発達者と発達障害者を区分けする「線」が存在する気がするのです。

私の思う「潜伏型(≒良い子)ASD」の定義をステレオタイプ的な「雑」さで説明するとですね、何らかの理由で親や指導者などを含む目上に対して従順で聞き分けがよく、自分の意思に反してでも目上の指示を優先する行動をとる人々です。
そこには目上の人が発する「指示」を聞き、実行できる理解力が必要でして、それ故に当事者は定型社会が求める年齢相応の社会性のラインから逸脱することがありません。
早期に発見される発達障害者と「潜伏型(≒良い子)ASD」の差は、単純に「この社会性のライン逸脱の有無」という部分のみです。
極めて「ラフ」な表現ですが、この程度のラフさでこの後のハナシを聞いてくださいね。

現在の「発達障害のケア」というものがどの程度進化しているのか、私は具体的に知りません。
ただ、Twitterなどから聞こえてくる情報を私なりに整理して見えてくるのは、「発達障害のケア」が「目に見える社会性のラインから逸脱に対してのケア」に偏っているように感じるのですよ。
つまり、目に見える「社会性のラインから逸脱」が見当たらなければ、発達障害のケアは(ほとんど)行われないことになるワケですよ。
これは、社会的ケアのみならず、親が子どもに対してどのように思い感じるのか…の部分を含んでのハナシです。
この視点に立ってしまうと、仮に「潜伏型(≒良い子)ASD」が早期に発見されたとして、ケアが必要なラインの「障害者側」の枠の中で、何をケアすることになるのか…という問題は発生すると思うのです。
早期に発達障害に気が付くことで発生するデメリット、障害者という枠がASDである私を閉じ込める可能性…というのはそう言うことです。

そもそもASDはスペクトラムで、定型から重度ASDまで続く連続体である以上、「障害である」というラインを引くこととは馴染まないワケです。
そこに「無理やり」障害者としてのラインを引く…それが「社会性ラインからの逸脱」ということですよね。
その矛盾に目を向けたときにどうするのか…ということです。

もし仮に「潜伏型(≒良い子)ASD」であったと自認する私が、小中学生時代にASDと診断されて「発達障害のケア」を受ける側に回ったとして、受験勉強を突破して進学した高校に大学に、入学して卒業することが出来たか…と考えたときに、その答えに窮するのは何故なのでしょうかね。

そこに「発達障害のケア」の方向性に対してのヒントが隠されていると思うのですよ。
「発見された障害に対してのケア」という概念を考え直す時期が来ているのだと、私は思うのです。


「潜伏型(≒良い子)ASD」の成立について、私の経験談をまとめたマガジンを添付しておきます。
なぜ大人しくて従順なASDが誕生し、その後の潜伏が可能なのか、その具体例として見ていただければ幸いです。

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