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Episode 496 言葉に定義が欲しいのです。

私は本州日本海側の政令指定都市で発達障害に関する小さなちいさな「自助会」を主催する、発達障害の当事者です。
実は私…私が主催する自助会以外の実地の「自助会」に参加したことがないのです。

私が発達障害の「自助会」を始めたのは、2019年4月のことで、それから月一回の開催を続けて今月(2020年12月)で21回目の開催…。
たかだか一年半ちょっとの期間ではあるものの、なんとか継続できているのには、自助会に求める私なりのポイントがハッキリしているからだと思います…ただ。
自助会の「一主催者」として、ネット上で発達障害に関係するイベントの関係者へのバッシングや中傷が止まらないことにモヤモヤを感じます。
ここには自助会の定義に関する考え方の個人差があるのではないか…と、私は感じるのです。

私は発達障害ではない「当事者会」に参加したことがあります。
それは不登校の子どもを持つ親の会だったのですが、どうもこの会に馴染めなかったのですよ…私。
何かね…「どうやったら学校に行けるようになるのか」みたいな議論が中心でね、息が詰まる感じがしたんですよね。
残念ながら、参加した当事者会は女性の参加者が多く、社会的な立場の問題から男性に遠慮する女性の「配慮」みたいなものを感じることがあってですね…裏を返せば、男性に対しての女性の「保身」でもあったとも思うのですが、かなり話し難そうだったのですよ、男親の私に対して。

この、私が参加した「不登校親の会」の立ち位置は「カサンドラの会」に位置に似ているのだと思います…苦しんでいるのは事実でも、苦しんでいる原因の本丸は当事者にはなく、その「近親者」だという意味で。
子どもが不登校になる理由は様々で、特定されたひとつの原因があるワケではなく、子どもの性格や環境、状況によってイロイロ…そのイロイロで上手くいかないことに親が苦しんでいる二次的な問題。
その二次障害を作っている原因を無くしたい…「子どもが学校に行く」という「社会的な普通」に導くことを安心と結び付けてしまいがちなのかな…と。

私が自助会活動を考え始めたころ、私が住む地域には「自助会」がありませんでした。
いや、発達障害に絡む支援団体や組織などはあったのだと思います。
ただね、それらの組織に共通なのは「発達障害の当事者が主体なのではない」…という印象だったです。
それは私の思う「自助会」では、ない…。

私は私が見てきた「発達障害支援団体/組織」や「カサンドラの会」・「不登校親の会」などを否定するつもりはありません。
ただし、それは原因の本丸になる当事者の自由な発言をする場所としては機能しにくいだろうと思うのです。

障害や生活に苦しみ、妾も掴む思いで関係しそうな組織/団体を検索するのは、きっと誰もが経験する「前を向こう」とする最初の一歩なのだと私は思います。
その時に悩むのは、「何を目的にする会なのか」が不明瞭…ということです。

多くの支援団体/組織や、当事者会・自助会は、その目的を何かしらのメディア媒体を使って開催の告知をします。
そこには「どのようなイベントなのか」を明記していることが殆どです。
ただ…苦しんでいる当事者の視線/思考はかなり狭く、「普通は分かるだろう」と思われる説明の歪曲解釈は十分にあり得る…「かする」程度の引っ掛かりでも、溺れる苦しさから掴みたくなるのは、私の経験上で理解できることです。
掴んだ結果、「自分が思っていたのとは違う」…という空振りは、その人にどんな影響を与えるのか?

だからね、自助会をはじめとする対象をハッキリさせるべきと感じる言葉の定義を、改めて考えているのです。
ちなみに…私の思う自助会とは、

当事者が自分の気持ちを素直に表現して、楽になる足掛かりを作る場所です。

改めてこの記事を。

自助とは、マイノリティが自らを支えるために必要とする生き延びるための知恵。

自助会とは、「自らを救うために自ら行動する会」だと言うことが、言葉としての共通認識になってほしいなぁ…と、私は思うのです。

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