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Episode 590 痛みを隠してしまうのです。

私的に2022年は「暴飲暴食」でスタートしてしまったようで、いきなりそのツケを実感するようなことが起きてしまいました。
1970年生まれの私…52歳になる年初めに私を襲ったのは「痛風」の痛みでした。
コレが痛いのなんのって…何をどうしてもラクな姿勢がないキツさは、40歳になる年に経験した腰痛以来のことです。
痛みが出た箇所は左足の親指付け根付近…左足なのでクルマの運転に支障はなく、バファリンを飲んで仕事には行くものの、なかなかハードな一週間となったのです。
右足だったら仕事に行けなかった…いや、いっそのこと患部が右足で、仕事に行けなかった方が良かったのかも知れません。
何でこんなハナシをするのかと言うと、ASDの私は「本当にピンチの時」にムリをしがちなんじゃないか…なんて思ったからです。
というのも…。

以前に話題したことがあるのですが、ASDの私はあなたの機嫌を窺う方法として「ちょっかいを出す」という方法をすることがあります。

あまり褒められた方法ではないのですが、残念ながら無意識にやってしまうことがあってですね…。

潜水艦の「アクティブ・ソナー」のように、反応を探る為の探査音を出してしまうワケです。
以前の記事にも書いて書いたように、露骨な探査音は場の雰囲気を著しく悪くする可能性があることを学習した私は、自虐ネタを使う手を覚えるのです。
「痛い!」という言葉は、この探査音にちょうど良い言葉でして、反応を見るために「つい大袈裟に」言葉を発することがあるのは…否めないのです。

小さなころのちょっかいは、そこそこ有効でした。
「子どものやること」のひとことで済まされていましたから。
でも、年齢を重ねるごとに、この方法は難しくなっていく…。
私にとって必要な判断材料だった「ちょっかい」は、周りから見たらただの「いたずら」でしかありません。
何かちょっかい出してくる変なヤツ…。

今となっては相手を傷つけない「自虐ネタ」で反応をみるテクニックを覚えましたが、この年になってもやっていることは基本的に変わっていない気がします。

先ほどのツイートには続きがあります。

ここに人間の「社会性」が滲み出る…。
言葉というコミュニケーション・ツールを駆使する社会では、自分のピンチを言葉に乗せて「Help !」と叫ぶことが出来る…普通ならね。
但し…「Help !」を伝えられる相手は、信頼できる相手に限られる…これは当然。

私が「Help !」を伝えられずに押し黙るのは、明らかに「言葉というコミュニケーション・ツール」を駆使する自信が無いから…だとすれば、自ずと無理する理由が見えてくるのです。
つまり、野生動物の威嚇のように「強がる」を決め込むには、無理してでも「通常運転」を継続するしかないワケですよ。

振り返って自分自身を分析するのはカンタンです。
私はそういうの、得意ですからね。
でも、その分析ができることと、咄嗟の態度がコントロールできるかは別のハナシです。

今回、左足親指付け根の痛みを抱えながら私が取った行動は、自信のない行動を回避する「本能に従った正しい選択」だったと思います。
ただ、それこそが「ASDである」を証明する選択だった可能性は否定できません。

ASDであることを抱えて生きるとは…つまり、こう言うことです。
理解して定型社会に合わせて修正する…は、自分自身でコントロールできる範囲でしかないのだと、改めて思うのです。

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