見出し画像

失われた小指

※この記事は【ちょっと一息物語】というコンセプトの創作です。その名の通りコーヒータイムや仕事の合間、眠る前のちょっとした時間に読んでいただけるような短い物語として書きました。今夜は、小指の欠けた男が回想するところから始まる物語です。それでは、ゆるりとお楽しみください。

くだらない人生だった。どんよりと灰色に曇っている空を見ながら思った。


使い古したジッポを取り出し、ポケットでぐしゃぐしゃになったタバコに火をつける。吐き出した煙は重たい空へと還っていき、あとには乾いた透明な空気だけが残った。


タバコを持つ自分の手に目をやる。本来ならそこにくっついてるはずの小指は、もう何年も行方不明のままだ。まるでかつて家を飛び出した俺のように。


俺は虐待の中に生まれ、虐待とともに育ってきた。人生で一番はじめの記憶は、暴力に怯え泣き叫んでいる自分だった。何度も何度も、水の中に沈められ窒息しそうになったのを覚えている。その苦しみも、感覚もまざまざと思い出すことができる。


母親は俺が1歳のころに離婚し、それからは不定期に男を作っては一緒に住まわせた。母親にとっても、その恋人の男にとっても、俺は邪魔な存在でしかなかった。だから俺は自分の存在をなるべく消して生きるようにしてきた。中学では、学校のアルバムに写真が載っていなかったほどだ。おそらく、クラスメイトの誰もが、俺のことを思い出せないだろう。


そんな俺にも、たった一つの救いがあった。それは幼馴染の咲だ。彼女は俺の家庭環境をよく理解しており、なにかと気にかけてくれた。当時人間のことを全く信用していなかった俺は(今でも咲以外の人間は信用していないが)、咲に相当ひどい態度をとった。一生忘れられないような言葉も吐いたかもしれない。とにかく俺は、手負いの獣のように、近づいてくる咲に対して牽制し続けた。しかし、咲は諦めなかった。屈託のない笑顔で、ときには涙をぼろぼろと流しながら、俺に手を差し伸べてくれた。彼女のおかげで俺は、この世界にはどうやら愛というものが存在するらしいということを知った。


高校は一緒の学校に通った。俺の学力は咲に遠く及ばない悲惨なものだったが、家での壮絶な虐待に絶えながら必死に勉強し、なんとか合格を勝ち取った。咲はいつものような屈託のない笑顔で喜んでくれた。


咲は天使のような人間だった。人を疑うということをせず、何に対してもまっすぐだった。だからこそ、俺には眩しかったし、うやらましかった。そして、異性として惹きつけられた。しかし、一方で人間のどろどろとした闇の中で生きてきた俺からすれば、咲の生き方はとても危ういもののように感じられた。彼女は平凡な家庭に育ち、平凡な友人に囲まれているから幸せに生きていられる。だが、ひとたび悪意を持った人間の毒牙にかかれば、彼女のような純粋な人間というのはいとも簡単に壊れてしまう。彼女に悪い虫がつかないか心配でならなかった。


あるとき、咲は2つ上の大学生と付き合うことになった、と報告してきた。俺はショックを隠せなかったが、彼女が幸せならと暖かく見守ることにした。その頃には、俺もようやくなんとか一人で生きていけるだけの余裕ができていた。あくまでもかろうじてだが。


その翌日、偶然咲とその彼氏を町中で見かけた。なんだか見てはいけないものを見てしまったような気持ちになり、慌てて立ち去ろうとしたが、その彼氏の顔つきがいやに気になった。人間のクズに揉まれた俺はすぐにピンときた。やつは間違いなく”こっち”側の人間だった。


俺は必死に咲を説得した。俺が咲に何かを意見することはそれまで一度もなかったため、彼女は目を丸くしていた。最初は「心配してくれてありがとう」と受け流していたが、幾日も俺がしつこく説得するのに対してついに我慢の限界を迎え、激しい言葉で俺を突き放した。その瞬間、俺たちの間には決して埋まることのない溝ができたことに気づいた。


それから幾年月が流れた。時折、咲の噂が耳に入ってきていた。俺が不安視していたとおり、咲はあの邪悪な男に騙されて多額の借金を背負い、今では風俗で働いてるとのことだった。何度も救ってあげたいと思ったが、俺が行っても彼女が俺を受け入れてくれないことはわかっていた。


俺は今ではヤクザになっていた。彼女が働いている風俗店は俺の組がケツモチをしている店だった。つまり彼女はうちの組にとっては金になる商品であり、いくら組員の俺でも手を出すことは決して許されなかった。


しかし、そんなことはどうでもよかった。やはり俺にとって咲はどうしようもなく大切な存在だった。俺は組にばれないようにこっそりと彼女に会いに行った。


久しぶりに会った彼女は、ほとんど別人のようだった。髪はボサボサに乱れ、ひどく痩せていた。唯一、丸くて大きな瞳だけがそのまんまだった。彼女は俺を見るとすぐに誰かわかったらしく、弱々しい声で「帰って」とだけ言った。「一緒にここを出よう」と俺は手を差し伸べた。しかし、彼女はその手を振り払い、「君には関係ないでしょ!」と叫んだ。


それから、俺は何度も何度も彼女に会いに行った。もはや理屈ではなかった。かつて俺が人間不信の中でもがいていたとき、必死に手を差し伸べてくれた彼女のように、俺はどんな目に会おうとも彼女を救おうと心に決めていた。


しかし、彼女の心のなかに巣食っている心の闇は尋常ではなかった。深淵のように底の見えない闇だった。俺は純粋で無垢だった彼女がこれまでどんな目にあい、どんな絶望を押し付けられたのかを想像し身震いした。彼女は狂気にも似た強硬姿勢で俺を拒絶した。時には俺を口汚く罵り、空き瓶で頭を殴りつけた。俺はただ彼女に手を差し伸べ続けた。


あるとき、彼女がはじめて涙を流した。「なんで?」と小さく尋ねてきた。俺は「それはこっちのセリフだ」と答えた。


「なぜ、君はあのとき、俺を助けてくれたんだい?」


「君が、とっても辛そうだったから。見過ごせなかったの」


「うん。」


「周りの人達は、君が虐待を受けてるのに気づいていたのに、見てみぬふりをしてたから、助けられるのは私しかいないって、そう思ったの」


俺は静かに涙を流した。咲は俺の恩人なのだ。


「咲。俺もおんなじなんだよ。まったく、おんなじなんだ」


咲はその場で泣き崩れ、駆け寄った俺に身を委ねた。彼女はこの数年、悪い夢のような世界で生きてきた。自分を守るために必死になり、いつしか俺と同じように他人を信用できなくなってしまっていた。俺は彼女を抱きしめた。氷の中で凍える彼女を自らの体温で温め溶かすように。いつまでも。


ーーーーーーー


くだらない人生だった。どんよりと灰色に曇っている空を見ながら思った。


「おーい!はやくー!」


道路脇に停めた車から咲が俺を呼んでいる。彼女と俺の間には、まだ埋まることのない溝がある。だが、そんなことはどうでもよかった。ただ二人でお互いを必要としていればいい。ふと、右手を見つめる。本来そこにくっついているはずの小指はない。しかし、そこには俺と咲とをつなぐ確固たる決意が存在している。

大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。