【言葉のチカラ】noteを適当に書いているダサい人にはなるな

最初からはっきり言わせてもらうと、何の主張もなく思想もなく教示や気付きを得られるようなエピソードもなく、ただ頭に浮かんだことを僅かな加工や編集すら惜しんで文章を垂れ流している人はもうこれ以上ないぐらいダサい。

たとえその文章が何かしらの原石であったとしても、磨かなければただの路傍の石ころでしかない。その辺に転がっている石ころを自慢げに見せられた側の気持ちを考えたことがあるのだろうか。おそらくないだろう。

他者を意識していない大半の文章は、程度の低いナルシズムに基づいた偏屈な精神構造から来ており、「とりあえず文章を書く」という微弱なカタルシスを得た後は基本的に放ったらかし。賢者タイムに突入してなんとなく有意義な一日を過ごせたような気になって寝てしまう。

これは文章を書くという行為にとっても、あるいは他者に読ませるという行為にとっても非常に侮辱的で、不敬なことである。

「自分は別に人に読んでもらうためにnoteに書いているわけじゃない」とほざく人もいるだろう。しかし、それは完全な矛盾をはらんでいる。

適当に文章を書きたいのであればわざわざネット上に公開する必要はないし、ましてや他人に読んでもらうことを前提に設計されているnoteに文を載せるということは絶対に他者を意識していないと起こり得ないことだからである。

ネット上に文章を公開するということは、必ず承認欲求だとか自分の考えを世間に広めたいだとか、そういった思惑が必ず絡んでくる。

「なんとなく自然体で書きました」という言葉を私は信用していない。すっぴんと言いながらベースメイクはしっかりしている女優ぐらい信じてない。

そしてそういうくだらないことを私は自分自身で言ってしまっているのである。

冒頭の文章が思ったより尖った内容になってしまったため、緊張感のある文章になってしまったが、ここで安心して肩の力を抜いてほしい。

この記事は紛れもなく私自身に対して書いたものだからだ。

ここ最近、私は文章を書くということに魅力を感じなくなってしまっていた。それどころか他人の文章を読むのもしんどくなってしまっている。

一体なぜなのかと悶々と考えていたのだが、大抵は面倒くさくてアニメを観たりゲームをするなどして忘れてしまう始末だった。

そんなことを何度も繰り返していたが、ここ数日になってようやく本腰を入れて考えてみることにした。気にはなっていたけれど面倒だから無視していた冷蔵庫の奥の古い生肉と対峙するような気持ちだった。

私にとって最も大きな問題は、「他人の文章を読んでも一ミリも心が動かない」という中年男性におけるEDのような悩みである。

人様の文章を読んで感銘を受け心が勃起するということは、全ての創作におけるスタート地点であり(私にとってはだが)、優れた作品から受けた深刻な感銘を持ってこそ優れたアウトプットをなし得るからだ。

しかし、感受性を失ってしまった私の心は、どんなベストセラー小説を読もうが“スキ”の多いnoteの記事を読もうが、樹齢600年の杉のようにビクともしなかった。

「これが老化ということなのか」と嘆き、涙を流そうとしても全く出なかったのでハリーポッターのシリウス・ブラックが死ぬシーンを観て涙を流そうとしたがそれでも目がカラッカラでむしろドライアイになった私は、ついに一冊の本と出会った。

その本は『死にたくなったら電話して』という非常に退廃的な雰囲気の小説で、読み終えた際にガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。久しぶりに他人の文章で心が動いた瞬間だった。

ここではその小説の内容を書くことはしないが、かなりインパクトのある本なので一度読んでみてほしい。

小説を読んでいく中で、私は自分の言動が作中の登場人物に引っ張られるように変化していることに気がついた。幼い頃、星の王子さまを読んで大人への猜疑心が植わったように、私の中に“初美”(作中の主要人物)の悪意に満ちた言葉が憑依して口調がトゲトゲしくなっていたのだ。

そのせいで何人かの人を傷つけてしまって大変だったが、深く反省して今はすっかり元に戻っている。

かくして私は、自分の不感症の原因が「言葉のチカラを信用しなくなった」ことにあると思い至った。

昔は言葉の持つチカラを純粋に信じ、どんなに嘘くさいファンタジーだろうがなんだろうが全て心に吸収してやるという気概を持って読書にふけっていた。

ところがいつの間にか言葉への信頼を失ってしまっていた私は、どんな文章を読んでも表面だけをなぞってしまい、その奥に隠された本質に触れることができなかったのである。

その事に気がついてからは、少しずつ心の不感症も緩和されてきたように思う。

さて、そんな不感症な私が書いた文章というのは、冒頭で書いたような“ダサい文章”に他ならなかった。ただ自分の述べたいことをダラダラと羅列し、ある程度の文字数を書いたら切り上げて「今日もアウトプットしたぞ〜。適当に書いたけど誰か褒めて」などとほざいて読み手の気持ちなんて一ミリも考えていなかった。

noteという媒体に文章を書くからには、必ずそれを読んでくれる人がいる。どこの馬の骨とも分からない私の文章を読んでくれる人はそれだけで貴重なのに、そんな貴重な人に無加工で無思慮なクソみたいな文章を読ませてしまっていたのである。

ここは一つ反省する良い機会だと思い、自分自身を奮い立たせるために少し過激な表現でこの記事を書き始めたというわけだ。

ただ、自分でハードルを爆上げしてそれを匍匐前進でくぐるようなことを言うが、今回の件を受けて私の文章が劇的によくなることはほぼないと思われる。私はこれまでの経験上、物事の上達に常人の10倍ほど時間を要すし、なにより文章の才能が残念ながらない。

だから、今後もあまり変わらないかもしれない。ただ、これまでのように投げやりで機械的に書くのではなく、「誰かの心を動かす」という気概を持って書いていきたいと思ったことは本当である。

これは私による私(あるいは私のような人たちへの)のためのささやかな決意表明である。

「noteを適当に書いているダサい人にはなるな」



大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。