映画「A.I」生きる時間が違うものの愛
土曜の夜は休みがおわってほしくなくて、よく映画を見る。
この日はスピルバーグ監督の「A.I」を見た。
すごく小さい頃に金曜ロードショーか何かで見て、デイビッドがほうれん草を食べようとするところ、優しいドラキュラのようなお兄さんと可愛いクマは何となく覚えていた。
黒人のロボットがジャンクショーで飛ばされて顔だけになるシーンと、世話用ロボットの優しいお姉さんが硫酸か何かで溶かされるシーンは怖くて夢に見たのを覚えている。
が、話は全く理解していなかった。
あんなに美しく悲しい話だったなんて。
子どもがおらず猫2匹と暮らしている私は、途中から自分と猫に置き換えて見てしまっていた。
まず、デイビッドを猫に置き換えた場合。
もしも私が子どもを授かった際、猫が危害を与えればどうするだろう。
自分の愛するものが愛するものを傷つけるかもしれないとき。
モニカはその時デイビッドに対し、自分ができる最良の選択としてデイビッドを森に捨てた。同じようにして捨てられた犬や猫もきっとたくさんいるんじゃないだろうか。
そして、ジャンク・ショウのように害獣として捕獲され処分される子たちも。
デイビッドと同じく、犬や猫も賢い。自分が捨てられたことに気付くだろう。そしてその後、デイビッドのようにそれでも、もう一度愛する人のもとに帰ろうとする子も。
何かに愛されるのはそれだけの重い責任を持つのだ。
デイビッドの場合Inputだったが、ペットの場合、頼りの親から引き離した状態で安心できる環境を用意し、愛情を与える。そうして信頼関係を築いた後に捨てられたと分かった彼らを思うと心臓がぎゅぅっとなるほど苦しくなる。
モニカと同じように、ペットを手放さざるを得ない状況に陥った人はたくさんいるだろう。
他の愛するものを守る為。災害で置いていかざるを得なくなった、自分の健康状態など。
だが、デイビッドのように、その人を愛するものやペットにその理由は分からない。なぜ突然優しかった、一番安心できる存在から離れなければならないのか。
第三者には何が正解で何が間違いなのかなんて言えないし、分からない。ただ、今私が一緒に暮らしている子たちは一生穏やかに、健やかに暮らせるよう出来るだけの準備と努力をするしかない。
二つ目の視点は、私をデイビッドに置き換えた場合。
デイビッドは、モニカに尋ねる。
「モニカはあとどれくらい生きられるの?」
ロボットのデイビッドと、生身の人間のモニカの生きられる時間は違う。
物語の後半、デイビッドは人類が滅亡して2000年後に再度目覚める。
当然愛してるママ(モニカ)は亡くなっている。
以前の記事でも書いたように、猫の寿命の短さを考えると時々ぞっとする。
そこだけが私が猫の唯一嫌いな点だ。20年しか生きられない。
私は猫たちを愛している。でも彼女たちはおそらく私よりも早く寿命を迎える。
そう思うと、こんなに好きになって大丈夫だろうか、いつか彼女たちに会えなくなったとき、私は耐えられるんだろうか、と恐くなる。
どちらについても、私に明確な解はない。
だが、この作品はロボット倫理だとか、AIだとかそれだけではなく
生きる時間が違う者同士が愛しあうことの難しさ、尊さ、悲しさを考えさせられる作品だと思う。
色々考えすぎて悲しくなってきた。
何も考えずゲラゲラ笑える作品がみたい。
土曜の夜更かしはまだまだ続く。楽しい。
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