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カメラを向けた世界は、どこまでも、奇跡だった。

最近、カメラを持ち歩くようになった。私専用のカメラだ。

いや、正確に言えば借り物なのだけど、
私が写真を撮るために渡されたカメラだから、
私専用のカメラと言って、間違いはないと思う。

今までも、いくつかカメラを使ったことがあった。
けれど、なんだか手になじまず、いつも家に置いておくばかりだった。
引き出しに大事にしまわれた、撮るために存在する彼らがいつも寂しそうな顔をしていて、申し訳がなかった。
申し訳がなかったから、できるだけ、
引き出しは開かないようにして、目を背けてきたはずだった。

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しかし、今回は違う。
私の身体にしっかりと馴染んだそれは、
私の手となり、目となって、世界を写した。

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カメラというのは不思議な道具で、
金属やプラスチックなどで構成された塊だったはずのものが、
使えば使うほど分子レベルで解けていって、
いつのまにか人間の身体の内側へと溶け出し、
同化するようになっている。(気がする)

ゆっくりと時間をかけて、身体の延長線へ加わるのだ。

私のもとにカメラが訪れてから、
私の目は、それを持っていなくても、
いつも写真を撮るようになっていった。

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レンズとなった私の目は、
いつも「あっ」と素っ頓狂な声を出してしまうほど、
美しい世界を写す。

カメラを向けた世界は、どこまでも奇跡だった。

例えば、光。
光はすぐそこに溢れていた。
例えば、影。
影にいつも見守られている。
例えば、色。
誰もが持ち、しかし一つとして同じものはない。

風も、水も、植物も、建物も、虫も、鳥も、
人でさえ、写真の中では奇跡に変わる。
いや、変わるんじゃない、
元から全てが奇跡だったらしい。

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それに、この奇跡は、いつも等しく存在する。
私はそのことに、ひどく安心していた。

笑ってしまうほど苦しい日も、
泣きそうになるほど幸せな日も、
女にも男にも、
老いにも若きにも、
私にもあなたにも、
世界はいつも平等に奇跡で、平等に美しい。

世界をもっと、好きになった。どこまでも。

「写真、とっても楽しいよ」という話でした。
他にも、色々書いてます。


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