演出家が役者に「自分がやってみる」ことについて

演出家とは、作品の総責任者です。

なんて書くと格好いいですけどね。要は妄想家です。舞台を「あーしたい、こーしたい」って言う人です。

ちなみに演出家のやりたいことを「具現化」する最高責任者は「舞台監督」です。現場に入ったら、演出家は客席でドキドキしながら見てるだけです。

(人がいない劇団だと、演出家も兼任だったりします。役者だったり、スタッフに紛れて居たりします。舞台監督と兼ねている超人も居たりします。)

演出家が役者に「こーしたい、あーしたい」と言うのを「ダメ出し」と言います。(ネガティブな言葉として言わないところもあります。)

そこで役者をやっている演出家さんによくあるのですが「実際に演じてみる」というのがあります。

役者からすると、これはとても大変な方法なのです。

ちょっと考えてみて下さい。目の前で「こうやって」と演じられた時、どこを見ますか?

かなりの人が、からだの動きや台詞の言い方を意識すると思います。

言われた役者は「からだの動き」や「台詞の言い方」をトレースしようとします。しかし、それはあくまで表面上のトレースに過ぎません。

役者は、体にも心にも「連続性」があります。そこまでの連続性を無視してそこだけを切り取り、トレースしたものを入れ込むと、かなりの高確率で異質なものとなります。

こういった演出を受けた役者の舞台はすぐバレます。みんな、各々の個性ガン無視で、演出家の「クセ」をトレースした動きになります。

悲しいのは、役者は懸命に努力してそれを獲得する為に、本人の必死さでなんとなく気圧されて、ある程度の評価をされてしまいます。しかし、「きちんと内側から産まれた演技」と比べると雲泥の差があるのです。

かなり優れた役者であれば対応も可能です。例えば、「演出家の演技」から「演出家の求めてるもの」を汲み取り「自らの演技」に落とし込む、というプロセスを辿れる役者です。しかしそれは、かなり高度なプロセスなのです。

※有効な場合もあります。例えば「決めポーズ」のような外連味のある芝居を組み込む時は有効です。

ですが、全てのシーンをそれで作るのは無理があります。

「演出論」は、演出の数だけあります。「演出論」を体系化しようという有名なものでは「スタニラフスキーシステム」があります。有名なので演出家をやってる方はこれを基盤に考えている人も多いと思います。僕の場合はそこを基盤に、小劇場系で発展したやり方を元に考えております。

なので、「正解」は無いと思います。
変な話、役者全員が「演出家が演じて見せる」に対応出来るのであれば、それが最適解ともなりうるのです。

ですが、そのやり方で、どうも思い通りの方向に向かってもらえない役者さんもいます。特に初心者には顕著です。その時に「あの役者は俺の言うことを聞かないんだ」みたいな話を聞くと暗澹たる気持ちになるのです。

演出家と役者の関係は、信頼と双方の想像力と歩みよりで成り立つのです。その話はまた今度。

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