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他人の戦争に身を投じることの危険性:ウクライナ問題を巡る思索

ところで、1年ほど前から一部の日本人が前のめりになっているロシアとウクライナの戦争について、思うことがある。このウクライナのゼレンスキーとかいう大統領。彼は戦争の責任を全うし、その結果として自分の命を捧げる覚悟があるのだろうか。どうもそうは見えない。戦争になるやいなや自国のことを棚に上げては世界中に援助を求めまくり、助けないと分かれば罵倒し敵視する。ロシアの侵攻前にできるかぎりの手は本当に尽くしたのだろうか。この手の虚言癖は今の世に氾濫している。そもそも、ウクライナはロシアに勝てるのだろうか。勝てないのなら、それにも関わらず最終手段を選んだのは何故か。しかも彼はいまだに武器をくれ弾薬をくれなどと世界中をのたうち回っている。そして前線の兵士は死に国民も死んでいく。この男、一国の大統領として、本当にちゃんと先を見越しているのだろうか。その一方で、ロシアがもし負けて(可能性は恐ろしく低いにしても)、プーチンが極東裁判のように裁かれることになっても、こちらの方は断固としてロシアと自己の正当性をアピールするだろうと感じる。もしゼレンスキーが同じような立場に追いやられれば、状況が理解ができないまま周囲をキョロキョロ見回していそうである。で、最後には命乞いをする。ご存知の通り、戦争は勝った方が善である。もしウクライナが負ければ、これだけの国民と兵士を死なせるような失策をしておきながら、と彼はS級戦犯になるかもしれない。


ウクライナ問題を巡る日本の役割:現実を直視し、個々の生活と安全を考えるべき時

殊にウクライナ問題に関する日本国の外交については頭を抱えることばかりである。何故頭を抱えるのか?事は単純である。私とその家族を外国の戦争に巻き込んでくれるなよ?というお話。どうやら、好んでウクライナ問題をとりあげ、ロシア悪と連呼しているような人々は戦争映画でも見ているような心持ちなのかもしれない。彼らは自分以外にも日本人が大勢いることをちゃんと理解しているのだろうか。まともな感覚を持っているのなら、自分独り身であっても他人の喧嘩にわざわざ身を乗り出すようなバカはしない。ましてや、自分と一緒に家族、妻や子供、両親然りだが、そうした大切な人たちが自分の後ろにいるとして、近くで喧嘩が始まったら、やらなければならないのはその喧嘩から距離を置いて自分と皆の安全を確保することである。しかも、昨今許しがたいほどにタチが悪いのは、こうやって好戦的になっている人々の中でも、いざ自分がその喧嘩に身を乗り出したときに、自分の前には自分を守ってくれる奴がいると思っている輩たちである。もちろん、自衛隊のことを言っている。自分の戦争でもない争いに好き好んで首をツッコミ、やばくなったら自衛隊である。おいおい、俺が日本国の首長なら自衛隊の代わりに彼らを前線に出す。それは約束する。隊員の命をなんだと思っているのだ。他人の喧嘩に首を突っ込む理由はスクリーンで映画の主人公をみるよろしく感情移入ではなかろうな。悪役を殺せ!イヤイヤ、これは映画ではない。

情報社会における他人表現の影響と、自身の空間的立場から見た感覚的リスクの捉え方

他人が自らの感覚を通して取り込んだ現実が、情報に変換されたつまるところの他人表現に対して、我々の脳は猿真似よろしく鏡のような反応を引き起こすという(ミラーニューロン)。我々は他人の立場になって考えることができるというが、裏を返せば他人表現に埋め尽くされた昨今の情報社会の中では、我々が絶えず知覚するのは他人表現による世界であり、すなわち我々自身の感覚から遠ざかり、絶えず他人の立場になって世界を捉えてばかりいる。これは、とても悪いことである。ウクライナ万歳の人々にぜひお伺いしたいが、ウクライナは本当に善なのですか。ウクライナが善だと、一体どうやって決めることができるのですか。ウクライナは被害者ですか。どこをどう捉えれば完全なる絶対的な実在的被害者になりうるのでしょうか。自分以外の他人の感覚に依存すれば、物事の善悪はたちまちわからなくなります。個々の日本人について考えてみれば良いでしょう。北海道にすむ人々、特にロシアと国境を近くする人々の中には、ロシアを差し迫った危機と強くとらえる人もいるでしょう。その理由は様々ですが、例えば知り合いや家族がロシアによって殺されたり怪我をさせられたということもありうる。北海道とロシアの境界付近ではたまにその手の事件が起きることがあります。一方で、沖縄の方はロシアというよりは中国でしょう。地理的に近いからです。どちらのリスクもより感覚的だと言える。では東京や大阪などの本土はどうでしょうか。ロシアからも中国からも結構遠い。本土に生きる我々にとって、ロシアや中国といったリスクはより感覚から離れている。とにかく実際にどんなリスクでそれが起これば一体自分にどのような影響があるのかはわからないが、とりあえずどのようなリスクにも同様に近い理想的で完全なリスクがあると信じている(リスクのイデアとでも言っておけ)。

情報社会と個々の感覚:ロシアとウクライナの戦争を見る目

私はこの手の他人表現を常に自分の感覚まで可能な限り落とし込んで主体的に判断するようにしています。例えば、ウクライナという国が善か悪かなんて立場によって異なるでしょう。私は戦時の日本に生きていませんが、それでも当時の戦中と戦後の話を聞くたび、なぜかよく分かるのです。戦中は「鬼畜米兵」だったのが戦争が終わるや否や「マッカーサー万歳」になったと。つまり、ロシア悪という人々は自分自身に一定方向の係数または立場を持っている事になる。その立場というのはあなたの脳が勝手に決めたことで、本来善悪の別はありません。私が問いたいのは、その立場は本当にあなた自身としての立場ですか、というものです。極端な話、他人表現を受け売りしてウクライナかわいそう、ロシア巨悪と思い込んでいる人々が、ある日街を歩いていて突然通りすがりのウクライナ人に殴られたらどうするのでしょう。あるいは、家族が隣に住んでいるウクライナ人になんらかの迷惑を被っていたら? その一方で、昔困っていた時にロシア人に助けられたらどうでしょう。日本にはウクライナ人と付き合いのある人、ロシア人と付き合いのある人もたくさんいます。とあるウクライナ人が嫌いな人もいればとあるロシア人が嫌いな人もいるでしょう。その逆も然りとなる。ところが、他人表現、特に昨今の大衆メディアを通して情報を得ている人たちは、自ずと善ウクライナの立場を取りがちになる。こういったメディアがばらまいている情報によるメッセージは実に単純です。

  • 鬼畜ロシア

  • ウクライナ万歳

  • ウクライナは戦争に勝っている 

  • ロシアは戦争に負けている

さて、日本の戦時中のメディアの展開を多少はご存知の方なら、全く同じ状況であることに気が付いているはずでしょう。どうも腑に落ちないのです。この手の情報が垂れ流され続けて1年、ウクライナはまだ勝っていません。それどころか、かの大統領は世界中を遠征して支援を求め続けている。勝っているのになぜ支援が必要なのですか。ウクライナが善ならなぜ、世界がロシア・中国派とアメリカ派に分かれるのですか。相手が悪だからですか。同じように戦中を戦った日本は、国土を疲弊させ続け、最終的に大きな爆弾を落とされて敗戦しました。行き着くところまで行かなければもうどうしようもないということですか。

まとめ

私が思うところは、要するに、いちいち他人の喧嘩に首を突っ込んで巻き込まれるような真似はやめろということです。ある一定の距離を置きつつ、自らの利益になるようにこの争いを利用すれば良い。それが外交でしょう。まさか正義がどうのと真に受けて関わりを持った日には、アメリカもヨーロッパも影で笑っていますよ。この戦争がどのような結末になるにせよ、予測できない未来に対するなんらかの策が必要ですが、どちらか一方の結果だけに全財産を賭ければ、待っているのは地獄です。まあ、もうだいぶ遅いといえるのでしょうが。

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