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NEWあやとり家族〜ADHDの頭の中〜


最近の私

経腸栄養でどうにかカロリーをとり、食べられそうな物を片っ端から食べて
量は少ないが、胃がん患者のオペ後の食事のように何回も分けて、どうにか体力がおいついてきた
友達から「甘酒は飲む点滴なんだよ」と聞いて毎日豆乳と割って飲むようにしている。これも氷を3つ入れると余計にうまい

ある夜のこと

なかなか眠れないので、西洋医学の薬、睡眠薬を飲んだ。眠気が来るまで待っている中、東洋医学でいう”ツボ”に手を当てる。この時は丹田というツボに右手3本の指を添え、その上に左手の指3本を添えて深呼吸しながら寝るということをしている。
こうして西洋医学と東洋医学のいいとこ取りで自分の方法を見つけ出す

宗教ミックス

最近ではユダヤ教にあるタルムードの本を読んでいる。タルムードとは日本で言う”むかしばなし”のようなものでそこから学びを得ている。
そしてその本を読んだ後に、外人の友達からもらった日本語用キリスト聖書を読んで、その後5分間瞑想を行う。そして整ったところで写経をするという宗教をミックスした作業を行っている。

どの宗派も結論は同じ

宗教と聞くとなぜか構えてしまう人が多いと思う。
私は国語算数理科社会のように一つ一つ違う物だけれど学ぶものがあって、そういう枠組みに捉われるのではなく、何を伝えたいのか、何に気づいてもらいたいのかそういうところをみるようにしている。
だからこの宗教だから悪いとか布教活動とかそういったことは関係なくて、
例えば
・他人に優しくする
・困っている人を助ける
・人の話をよく聞く
・自分を大事にする
”大事”というたかが2文字の言葉でも、その大事の仕方が宗派によって伝え方が違うと言うのはあるけれど、結末同じ解釈に辿り着くことがわかった。
ADHDの私からすると、こういう多角的視点で物事を見ることができるのはとても良い勉強になる

カテゴライズされるのが嫌と気がついた

私はカテゴライズするのがすごく嫌な人間で、自分のことを人間と言うのも嫌なんだけど。私は一つの個体であって本当は名前もいらないくらいだ。
人間、女性、独身、バツ2、双子、彼氏彼女とかそういった類のこともあまり好きじゃない。これは最近になって自分で気がついたことだ。
何かの書類でも、会社員だとかパートだとかそういったことで人を判別するのも好きじゃない。最近はLGBTQとか女性でも男性でもないと言う枠組みがされるようになっていて、私は女性ではあるが女性にも種類がいっぱいあってそれを女性というい1つの枠組みで扱って良いのだろうかと思ったり
会社員とが自営業の人でも副業を持っている人はどっちを優先するのかとか本当にどうでもいいことなんだなっということを感じる
私は週3日パートで働いているけれど、残り4日は何もしていないから割合的に言うと無職の方が正解。無職にしても自分が好きなことをして生きていればそれは職についているかついていないかの違いだけで、人を分別することになっていると思っていて、自称ゲーマーとか例えばそういうのでもありだと思っている。
私は週4日を何もなく過ごしている。自由人と言うには自由すぎる発想だけど残り4日はADHDを伴って一生懸命生活している個体という枠を作って欲しいと思ったりする
世の中当たり前と思っているかもしれないけど、それは当たり前のことではないなと思う。それを無職という一個の括りにしてしまうのもカテゴライズの一種で、なんでそうやって決めたがるんだろうと思う。それをしなければいけないこともあるとは思うけどそれ以外はそこまでやらなくていいんじゃないかなと思う。こんなにいっぱい人間が住んでいる世界でそんなちっぽけなカテゴライズしていって何になるんだろうって。

薬が切れてくると発想が豊かになってこんな調子です

夜になると発想がすごい豊かになって頭が働き始めて、自分でも疲れるんだけど薬が切れてきてるとそうなっちゃうんだよね
今日書いた文章は夜、ボイスでとっておいたものを言語化してみた
改めて書き出してみるとぶっ飛んでいるのがよくわかる
でも楽しいんだよ、発想が自分で。だけど薬飲まないとずっとこういう発想続けてるから疲れちゃって、人間社会ではうまく生きていけないから
頭がぶっ飛んでいるのは自分。だけど他の人の方がぶっ飛んでいるって思っていたりもする

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