「やってみせ」を待たないで

やる気と不安と

日々働いていると
「これから〇〇というサービスを推進します。」や「〇〇の向上を目指していきましょう。」という業務連絡を見たり聞いたりすることがあります。誰しもが経験したことがあると思いますし現在進行形の方ばかりだと思います。

この業務連絡を聞いたときにあなたはどう感じていますか?

「よしがんばろう!」という気持ちと「なにをどうしたらいいの?」という不安な気持ちが同居している状態ではありませんか?

そして不安な気持ちが大きくなると最初の一歩が踏み出せず「誰かやってないかな…」と周りの仲間の行動をうかがうだけになってしまいがちです。

うかがった先の景色

不安な気持ちをもう少し考えてみます。
取り組みがスタートしても周りをうかがうだけ、つまり傍観してしまうその視線の先は誰を見ているでしょうか。おそらくほとんどの方が先輩や上司ではないでしょうか。「先輩や上司は実行しているだろうか」と様子をうかがっている感じだと思います。しかしその先輩も傍観していたら、逆にこっちを見ていたら・・・傍観の先も傍観しかない。野球で言うところの外野フライのお見合い状態です。凪のような静かな部署内の景色が想像できまです。

生まれながらに「やってみます」の人はいない?

やる内容にもよるとは思いますが「私はなんでも真っ先にやってみます」と即答できる人は私の周りには少ない印象です。新規事業に積極的に取り組む「イノベーター人材」は3〜5%となっています。※1 つまり1つの部署に1人はいるということはまずなく、1つの部門1人いるかいないかという計算になります。ここまで書きながら新しいことを浸透させていくって難しいよなと実感しました。先に書いた傍観を悪と決めつけるのも良くなく、いわば普通のリアクションとも言えます。

※1イノベーター人材と良好な関係を築きマネジメントする「IRM」とは (2ページ目):日経ビジネス電子版 (nikkei.com)


山本五十六

やってみせ
言って聞かせて
させてみて
ほめてやらねば
人は動かじ

突然ですが、このことば、一度は聞いた事のある人も多いのではないでしょうか。
これは山本五十六という人の格言でよく人材育成の類で引用されることばです。現代語訳すると

手本を見せてあげて
やり方を丁寧に説明して
相手がそれに取り組んだらほめてあげないと
人は動いてくれない

といったところでしょうか。先輩や上司に向けての言葉であることは間違いなく、背中を見せないと部下は動きませんよという格言です。

しかし、私は1年くらいずっとこの格言について気になっていることがあります。それは

「やってみせを待つことの是非」についてです。

「やってみせ」とはその名の通り上司が部下に対して「やってみせる」ということです。しかしこの山本五十六は軍人です。ですから部下も当然軍人なのですが生きるか死ぬかの極限状態で上司の「やってみせ」を待っていたら命を落としかねないのでは?という疑問が今もあります。もちろんこの格言がそういう状況で述べられた言葉ではないことも承知しています。そもそも人が人を動かそうとすること自体がおこがましくもとれるわけで、それを実行しようとするならばこれくらいのことをしないといけないよ、という意味なんだろうと自問自答がただ今完結しました。しかし、人は人を頼ろうとします。外からの力で自分自身を動かしてもらおうとするのです。楽だから。でも動かないことを薄々感じている。結局自分自身を動かすのは自分なのではないか。これを山本五十六のこのことばを引用して捉えなおしてみます。

「やってみせ」は誰がやるのか?

こう問いを立てた時に真っ先に出るこたえは「先輩・上司」ではないでしょうか。山本五十六の格言もそのように書いてあります。しかし、やってみせてもらって、ほめてもらっても変われない自分は存在するのです。私が見てきた「イノベーター人材」と呼ばれる人はこの「やってみせ」をやる人を「自分自身」に置き換えているということです。自分が自分にやってみせているのです。


「言って聞かせて」は自分の感情の言語化

次にくるのは「言って聞かせて」です。自分自身に言って聞かせるわけですが、この場合説得というよりも「やってみせ」で実行した結果現れた自分の感情の言語化だと私は思います。この感情の言語化はとても大事です。ここで自分の気持ちが

「決まったことだから」とか
「上からおりてきた決まったことの理由にいまいち納得してない」
気持ちで心の半分以上を埋めていたら

「やってみせ」はなかなか続かないし、なにより自分自身にやってみせたくなくなると思うのです。

この言語化で大事になってくるのは自分自身の「やってみせ」を「やってみたい」に変換できるかどうかだと思います。この変換方法は残念ながらどこにも書いてありません。自分の中で考えるしかないです。正直な話世の中の仕事と言われるもので最初から「楽しそうだからやってみよう」という類のものはほとんど存在しないと思います。だからこそ、自分で楽しそうだなと変換する力が必要になってくるわけです。

ただその一方で指示を出す側はその仕事内容をかっこよくではなく、できるだけ楽しく思える内容で伝えないとやる側の心の負担は大きくなってしまうとも言えます。

考えて考えて、「やってみたい」気持ちになってからやる次の「させてみせ」は仮に失敗しても楽しいものになるはずです。そして自分の雰囲気も明るくなる。


ウソの「させてみせ」は危ない


次は「させてみせ」ですがこれは「やってみたい」気持ちになってからやる「やってみせ」だと捉えることができます。最初の「やってみせ」が深く考えないアクションだとしたら「させてみせ」は自分なりの理由や目的を定めたアクションです。

少し話がそれますが、この「させてみせ」が「ウソのさせてみせ」になる場面を割と見ます。詳しく説明すると「やってみせ」をやってみずに頭の中のシミュレーションや、他人の経験談ですませて「させてみせ」に言ったつもりのパターンです。実はこれが1番多いパターンなのではないかと思ったので

人の知見を待ち自分の考えを持たずにマネから入りマネで終わろうとする。

と太字で書いてみました。「まなぶ」は「まねぶ」という言葉から生まれたようにマネすることはいいことです。ただそれは最初の「やってみせ」の時だけです。マネから入った「やってみせ」で得た経験と自分の考えをすり合わせながら「させてみせ」まで行かなければ自分のものになりません。

仮に成功例があったとして、このすり合わせをしなかった場合、結果ばかりが光ってしまいます。そうなってしまうとその人が努力した経過を省略して「同じようにしましょう」という現象が起きてしまうのです。当然ながら同じようにはできないので結果はでません。しかし、結果は出さなければなりません。ですからたとえマネから入ったとしても個々が自分なりの考えを持ち行動しその知見を共有することこそがここで言う真の「させてみせ」だと私は思います。


「ほめてやらねば」でほめるのは心の動き


最後は「ほめてやらねば人は動かじ」です。
これは行動に移した自分をほめるということです。結果が出てもそこをほめるのではなく、自分で考えて行動に移したことをほめるべきです。もし成果が出たら周りに共有することでチームの成果も上がるでしょうし、失敗したら自虐ネタとして失敗を共有したらチームの雰囲気は良くなります。ですから失敗をたくさん共有したチームの方が雰囲気がいいことになります。何回転んだっていいわけですから、擦り剥いた傷をちゃんとみんなに見せるべきです。

「思い」のキャッチボール

最後に、先輩・上司側から見た時に感じることですが、部下の自発的な「やってみせ」を見逃してはいけないと思います。ただのラッキーではありません。その自発的な行動には必ず「思い」があります。そこが見つけられないとその部下の自発的な行動ばかりが光ってしまい、チームにとって一番大切な先輩・上司自身の「やってみせ」が霞んでしまいかねません。

先輩・上司自身の「やってみたい」に変換した「やってみせ」もやはり自分の中でしか見つけられないものです。そのお互いの「思い」のキャッチボールがチームの強さにつながると思います。


大人にならない子どもはいませんが人の上に立たないまま社会人を終える人はたくさんいます。でもそんなの関係なく自分なりの「やってみたい」を探せた方が人生はもっと楽しいものになるんじゃないかと思うのです。



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