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徳川家康さま☘️をたどる#28☘️信玄公との対立と三方原その1

初筆 2023年 3月 31日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#28
⬇️
https://stand.fm/episodes/642903bf57b312b20d21f5d9

1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

1570年・元亀3年、29歳の家康さまは忙しい中
京都行ったり、金ヶ崎で最前線に取り残されたり
浜松城に入城したり、姉川の戦いで
信長さまにさんざんイチャモンつけたり
いちおー大活躍したり😂活発

姉川での功績で家康さま、織田軍と横並びの
援軍という立場、つまり栄誉を得ること
「いちおー」できた模様😂

前回記事はこちら
⬇️


3 遠江所領化で出された朱印状

少し前の回でお話した、今川氏真さまを
相模北条氏に送ったころ、つまり、大名今川家滅亡後
1569年後半から、家康さまは頻繁に
「福徳」印判の朱印状を発行しています。
これは為政者が交代し、その為政者は
地域を統治するにふさわしい者であるという
世間へのアピールとのことで、地域の住民や
その取りまとめ役に対して発行していったのでしょう。

そして家康さまが浜松に入ったころから
徳川家には「奉行」という立場の者が
自然発生していったとのこと。
三河から遠江・浜松についていった家臣たち
三河では自らが耕す土地持ちだったのでしょうが、
遠江では土地があるわけではない、
そうすると、彼らは自然と土地を経済的に管理する
役割になっていき、自然と兵農分離あるいは政農分離が
自然発生したのではと思われます。
信長さまは意識的に合理性に着目し
兵農分離をしたのでしょうが、
徳川家の兵農分離はなんとなく、ぼわーっと😂
進んだのでは❓というのは私の考察です🙇

4 武田信玄さまとの決裂

武田・織田同盟の小項目ともいえる、
駿河遠江(静岡県全体)を川切を境界線として
取ろうという、信玄さまと家康さまの取り決め、
最初は、信玄さまがビミョーに破った模様でした。

大井川を境界と素直に考えた家康さま
この考えでは、遠江=家康さま、駿河=信玄さま
という取り分になるのですが、
天竜川を境界と考えた信玄さま
この考えだと、遠江西部=家康さま
駿河すべて+遠江東部=信玄さま
ということになります。
関東で所領争いに小競り合いを続けてきた
信玄さま、きっと、隙あらば
より多くの所領を取ろうという考えは
常にお持ちでその策の引き出しも多かったことでしょう、
家康さま、相手jは何倍も上手ですわー😂💦

そんな中、家康さまけっこう短気なのか、
姉川の大活躍で調子に乗ったのか、
信玄さまとの同盟を決裂させ
上杉謙信さまと同盟を結んでしまい
さらに信長さまへも、信玄さまどの同盟破棄と
謙信さまとの同盟を提案してます。
ひーーー、家康さま、やけに強気やけど
ええんかいなーーー😂

5 信玄公遠江への侵攻スタート

信玄さまはいちおー信長さまに
「家康あいつなにしてんねん、ちょっとシメてくれへんか」
と文句言い出しますが、信長公はまったく無視、
信長さま実は家康さまの短気なとことか
単純なとこ好きやったんかもですね

武田家🆚徳川家、お互いに不審状態になっていき
さらに以下のような。武田軍、遠江➡️三河➡️尾張➡️‥
と進軍してよいと思える条件が次々に成立❗️

  • 武田氏と北条氏の同盟成立で駿府は武田領国化

  • 武田氏と朝倉氏(まだ滅亡してない)同盟

  • 武田氏、必然と朝倉氏と同盟関係の大坂本願寺とも同盟化

  • 徳川領国うち武田領国との境界にある勢力の武田氏への鞍変え

これらを得たことで信玄さま
ついに徳川領国である遠江に進軍開始しました❗️

6 三方原直前

信玄さま、三方原の戦い直前、1572年・元亀3年の
遠江侵攻をまとめるとこんな感じです。

  • 遠江高天神城(信玄さま本隊)を陥とした

  • 奥三河(山県昌景さま・秋山虎繁さま)制圧

  • 遠江二俣城(本隊+山県・秋山隊)を陥とした

つまり武田軍は遠江の北部から三河北部を
既に自領としてからの浜松侵攻でした。

一方、家康さまは、15代室町将軍義昭さまの
支持を得ることもできて、さらに
織田信長さまより援軍佐久間信盛さまを
派遣してもらいました。
いざ❗️戦❓❗️

7 籠城ではなく出撃した目的は❓

と、思ってたら、信玄公ご本隊、
三方原から南下せず、浜松城はスルー
そのまま西の方向、東三河に向かう動きを見せました。
井伊谷(浜松市北区)から長篠(東三河)に出ようと
祝田へ丘から下ろうとする、と三河物語にあります。

家康さま軍議にて「一合戦しよう」

宿老たち
「今日の合戦はどうでしょうか。
敵の人数は3万あまりと思われます。
信玄は熟練の武者でもあり、
多くの合戦を経験する手だれの者です、
しかも味方は8千ほどです」
と籠城を提案しました。

家康さま
「それは仕方がない、
大勢が自分の屋敷の裏口を踏み破って
通ろうとしているのに、家の中にいて
出て咎め立てしない者があろうか。
負けたら負けたとき、出て咎める(べき)であろう。
自分の国を踏み破って通る者たちに
大勢だからといって、どうして出陣しないか。
とにかく合戦しないではおられまい、
戦は多勢無勢で結果が決まるものではない、
天運のままだ」

家康さまきっとすごい勢いでこのように
語ったのでしょうねえ🤣
本当は止めて欲しかったかも知れません🤣🤣
やべー出撃になってもーた、心の中で
家康さま思ったかどうかは知り得ません🤣💦

こんな言葉を家臣たちにまくしたてながらも
本心を言い得てなかった(←推測😂)
家康さまが籠城ではなくて、打って出た
その目的を、周囲との兼ね合いと関連して
まとめてみました。

  • 打って出ることで家臣団や遠江の国人衆(新規家臣団候補)の信頼を得るため(もし打って出なかったら寝返りや信頼失墜の可能性があった)

  • 勝ち負け関係なしに徳川家はなかなかしぶといという印象を武田家・織田家の両方にアピールしておき、戦後処理を少しでも有利になるような戦略

  • そもそも勝つつもりであった。三方原の横の祝田の坂を下る武田軍を襲撃するつもりであった(実際失敗😂)

  • 織田徳川連合全体からの視点で武田軍を遠江に足止めする作戦であった。

いずれにせよ、家臣団には言えてないんじゃなくて、
ごちゃごちゃ説明しなかったのかもですねぇ。
家康さまどの考えで動いたのかはわかりませんが、
負ける可能性高いとわかっていても
信玄公に立ち向かう気概を見せないといけない
立場の家康さま、タイヘンでしたねえ💦💦

8 次回

そして結果、ほぼボロ負けの家康さま🤣💦💦

三方原の経緯とエピソードいくつかを話しつつ
家康さまは浜松城までどのように無事帰れたのか❓
浜松城を守り切れたその作戦は❓
そして大敗で気が済まない家康さま
負けてるのに追撃司令を出す、だいじょうぶか❓
家康さまっ😂❓❗️

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