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徳川家康さま☘️をたどる#23#24増刊号☘️遠江へ🐎向かう直前の信長さま・家康さまの与力

初筆 2023年 2月 24日 / 加筆修正 未
この記事は有料ですが、
今とこは実質最後まで無料で読めます🤗
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「ご覧いただきありがとうございました。」
のみですよ☺️✋
またこの記事の前半と同じ内容を音声で聞けます。

スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#23
⬇️
https://stand.fm/episodes/63f9a80e7f6297082e181e22

スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#24
⬇️
https://stand.fm/episodes/64021961dd50eb32cba82c35

1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。


参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著


2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

家康さま、ついに東三河平定❗️
それすなわち、三河平定❗️❗️❗️
領地が広大となったせいで特に信頼できる家臣に
領地分割して統治をまかせたことが、自然と
岡崎の家臣団の軍事指揮系統を整理することに
なっていった。

一国の主人(あるじ)となったことを
内外にキッチリ知らしめるために、朝廷に
官職と官位を頂戴した、その結果。
藤原(徳川)従五位下・三河守・家康さま
となられたことと、その経緯はけっこう
タイヘンだった。

⬇️前回記事はこちら


3 ご嫡男、信康さまのご結婚

今回は家康さまが従五位下・三河守に叙任・口宣いただいたころの
織田信長さまの動向を話す前に婚姻を1つお話します。

家康さま叙任の翌年1567年・永禄9年5月、
元服して竹千代君から松平三郎信康と名を変えていた
家康さまご嫡男の信康さまが、織田信長さまの五女亀さまと
ご成婚なさいました。
織田・徳川同盟の一環としての婚姻でないはずはないですよね。

この前年に家康さまは徳川姓におなりだったのですが
信康さまは、後年には徳川姓ではなくて
岡崎三郎・松平信康と、徳川家の人々からも
そう呼ばれているとのことです。
そんな事情についてはまた別途💦

4 京都の事情・御所巻

日本のミヤコはどこか、と聞かれれば、
今でこそ東京ですが、いや、日本国憲法は
首都を明文化してなくて、京都でもあり、東京でもあり
っていうことらしいのですが。知らんけど😂
このころは当然、京都です。

京都を押さえる者が天下を把握する者である
という感覚はたとえ信長さまであってもお持ちだったろうし
実際京都を押さえた者は日本の中心にいる、と
思ってたんだろうと思います。
そして京都・畿内の民は室町幕府正常化を求めていました。

家康さまが三河平定に尽力しているころ京都から
さらに大きな範囲で「畿内」を押さえていた一族は
三好一族と松永一族で、三好義継さま・松永久通さまが
13代足利将軍の義輝さまを殺害したのが「永禄の政変」です。

いろいろ調べていくとこの永禄の政変は
将軍義輝さまと側近の方々が三好勢力の意のままに
政治を執行するのではなく、将軍義輝さま主導で
政治を執行しようとしたために、
三好・松永勢力と義輝さまは対立してしまいました。

永禄の政変は、結果は義輝さまが殺害されましたが、
ことの発端は義輝さま反三好側近の排除を求めて
三好氏がの義輝さま居住の二条御所を包囲したことでした。
プレッシャーかけたわけやね、
今風に言うたら「圧をかけた」いうやつ。
で、こういった将軍御所を包囲するゆう行為は
室町時代はよくあったみたいで、たいてい
この軍事行動で、室町将軍は
わかった、言うこと聞く❗️って折れてたらしいです。
この軍事行動を「御所巻」と呼びます。
なんや美味しそうやな😂

永禄の政変では義輝さまが言うこと聞かんと
武力衝突になり、お亡くなりになったそうです。
その後、松永氏・三好氏、その周辺の方々の中に
内紛が起こり、14代将軍義栄さまは御所に入れずご病没。
15代将軍になる前の義昭さまをかついだ勢力が
そもそも不安定で、細かい行き先ははしょりますが
義昭さまあっちうろうろこっちうろうろしてました😂
そして越前朝倉氏の元にとりあえず落ち着きます。

京都・畿内はそんな安定しない状態で
人々もその土地の豪族たちも、日々の政変で疲れていて
京都・畿内の安寧を求める人々の声がありました。

5 織田信長さま、足利義昭さまを奉じて畿内平定

越前朝倉氏で居候なさっていて、けど、
まったく京都に向かう気のない朝倉氏に辟易していた
足利義昭さまは尾張で勢をどんどんつけて来ている
織田信長さまに注目し、助力をお求めになりました。
というより、三好勢力に奉じられていたころにもうすでに
予に助力されたし、みたいな文書をほうぼうに
送りつけていた義昭さま。信長さんにも送っていたようです。
しかし、信長さまは美濃攻略の真っ只中。
余力がありませんでした。というよりも。。

三好氏主導で義昭さまに助力することを
信長さまはよしとしなかったんだと思います。
そして織田家しか義昭さまを奉じない状況を見計らって
京都に進軍しました。

やっと徳川家の話が出てきます。
このとき家康さまにも、信長さまから与力されたし
の依頼があり、兵2000を藤井松平氏の信一さまが
派遣されたと記録があります。

信長さまは京都進軍中に近江にて六角氏を撃破し上洛。
その後、三好氏の本拠地・摂津芥川城(大阪府高槻市)を
陥落させ、その軍事行動を見せつけることで
畿内の勢力をことごとく従えました。
1568年・永禄11年10月、義昭さまは15代室町将軍・
征夷大将軍におなりになりました。

なお、義昭さまと信長さまが仲違いしたときの
義昭さまがプランニングした信長さま包囲網が
けっこう信長さまを苦しめたことからもわかるように、
義昭さまの幕府は実際に畿内の大小勢力を
動員するだけの力はあったようで、この時点で
信長さまは世間からは「義昭さまの与力に過ぎない」
という認識だったようです。

6 15代将軍義昭さま・朝廷と家康さまのお付き合い

信長さま・家康さまは娘・息子が婚姻したことで
織田・徳川同盟はさらに強いものになってて
家康さまが、信長さまの軍事行動に助力するのは
当然みたく歴史の中では思われてますが、
家康さまのお考えを推測すると

  • とりあえずのある信長さまと同じ方向性の行動をしよう

  • しかし室町将軍も大切にしよう

  • けど信長の兄貴に助力するんやうゆう姿勢は崩したらあとが怖い

こんな感じやないか思います。
契約社員としてある会社に所属してるとき
その会社のクライアントから直接仕事受けたら
所属してる会社からはええ顔せんし、
契約切られますやん。
そーいうこと考えたはったんちゃうやろか。
だから織田産業に所属しながらも
室町工業とも仲良くはしとこ、と。
ほっしーやったらそー考えますわ。

実際、三河平定中だった1568年・永禄8年に
家康さまの元へ、義昭さまから助力を求める文書が
届いていて、とりあえず助力します、という
意思表示はしてます(和田家文書)。
また、義昭さま信長さま連合軍が
野田中島(大阪府大阪市)に布陣時にも
信長さまは家康さま軍、参陣必要なしと下知するも
義昭さまはそれを修正、家康さまに出陣を促したとのこと。
これは義昭さまが勢力を持っているという恣意行動であるとともに
そのような指令が室町将軍から届くようなお付き合いにしている
家康さまも室町将軍とのお付き合いは取ってあるような気がします。

なお、この時点で家康さまは三河守でしたが、
将軍義昭さまは、近衛家経由で叙任された官位で
宛名書くのをよしとせず「松平蔵人佐家康」と
書いてますが、のちに義昭さまが信長さまと
袂を分かってからは、「徳川三河守家康」と
書いているとのことです。

また、家康さま、公家とのお付き合いもマメになさってたようで
永禄11年9月の朝廷の法事費用を提供したときの記録文書には
1568年永禄11年11月10日付けで
「三州(三河守)徳川左京大夫」と記されていて
このころには三河守という官職、左京大夫という官職の
両方を保持していたようです。

家康さま、15代室町将軍義昭さまとのつながりを
大切になさってたころには、次期将軍は誰か
まさかの自分❓なんてことはこれぽちも思うて
はれへんかってんやろうな。
ふつー思わんわ😂

7 次回

織田信長さまが上洛・畿内平定をしたころ
家康さまは今川領である遠江・遠州・今の浜松周辺
静岡県の西側を切り取ろうとしていました。
それは幼い頃、竹千代時代に共に育った
今川氏真さまと戦うということでした。

家康さまが遠江侵攻を有利にした勢力関係は
どうだったのか、また
かつて人質として育った国の辺境国である
遠江を切り崩すときの家康さまの思いは❓

次回もお楽しみにっ


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