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徳川家康さま☘️をたどる#66☘️2大首都・駿府と江戸

初筆 2023年 12月 29日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 66
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • #徳川秀忠 さま #征夷大将軍 になり、秀忠さまは主に江戸で徳川総領国の統治を、家康さまは経験の必要な、朝廷 ・公家衆・門跡・諸外国とのお付き合いをなさった☺️

  • #秀忠 さまには征夷大将軍就任前から若い家老が付けられていて将軍系の世代交代が自然と行われていた。

  • 家康さまも新しい世代の家臣を自らに付けるようにして、世代交代をスムーズに行っていった。

  • 家康さまは側近以外にも、僧侶・学者・西洋人などさまざまなジャンルの家臣を登用していった。


⬇️前回はこちら❗️

3 徳川総領国の徴税見直しと秀忠さまの続行

家康さまが征夷大将軍に任じられる直前の
1602年・慶長7年ごろから、家康さまは
徳川総領国内における給人(昔の地頭・税務役人)・
代官と村の関係の再確認を始めました。
税率・納税の段取・脱税時の処分・特殊ケース
などの確認を土地ごとに行っていき、
1607年・慶長12年ごろには秀忠さまが側近らとともに
この徳川総領国の内務をよく執り行っていました。

給人・代官と村の関係に支障を来たした場合に
紛争を禁止し、直訴による解決を求めました。
これは村ごとに処理するとても細かい内務時効
なのですが、紛争が積もり積もると、
国人衆から場合によっては大名の紛争に
なりかねません。

歴史的に有名な事件だけではなく、
こういう事細かい事項の整備もあっての
天下泰平を築いた江戸幕府だったのです❗️

そして、このように紛争の凍結と裁判による解決が
社会全般に普及していき、この結果、武装戦闘は
こののち1637年・寛永14年に起きた #島原の乱
平定で収束しました。

4 家康さま駿府を居城とする

念のため申し上げておきますと、
駿府=駿河の府中=現在の静岡市、です😉🤚

1586年・天正14年、秀吉さまへの臣従以後、
ときには駿府や江戸に下向するものの、基本的には
上方、京大坂伏見に常駐なさっていた家康さまは、
1607年・慶長12年に居城を駿府と定め、
畿内を離れます。

家康さまは、それまでは京大坂にあって、
朝廷・公家衆・門跡に目を光らせていました。
そして、大坂城すなわち豊臣家の動きや
外様大名の動向も、家康さま自らが
常に注視してきました。

家康さまが、駿府に居を定める=京大坂から離れる、
という判断をした理由は以下と考えられます。

  • 諸大名は #大御所 家康さまに実質臣従している。これは年賀の挨拶を伏見の家康さまのみに行い、大坂つまり豊臣家には訪れなくなっていたことから、内心はどうあれ形の上では臣従している。

  • 押さえておきたい朝廷・公家衆・門跡とのお付き合いが軌道に乗った。

  • 駿府・関東までの海路が一通り整備された。

  • 上記の確認項目を、家康さまが京都所司代・板倉勝重さまに指示出しで執行・情報収集させてきたのことが、軌道に乗ってきて、平時は家康さまご自身が伏見に居なくてもよいというメドがついた。

上記のような諸項目をご確認して
家康さまは駿府での居城をお決めに
なったことでしょう。

しかし、推測ですが、家康さまは
さらに深いお考えがあったと思われます。
家康さまが京大坂にあって、
方々に目を光らせているのと
駿府に引き篭もるのでは、
豊臣家や西国諸大名≒豊臣恩顧の諸大名、
朝廷・公家衆・門跡にも怪しい動きが出てくるかも
知れません。

家康さまは、江戸幕府転覆を狙う動き、つまり、
天下泰平を乱して政権を手に入れようとする流れが
あれば、それをあぶり出すために、
居城を駿府にお移しになられたと考えられます。
このころ家康さまの側近は #本多正信 さまでした。
お2人のあいだには話にあがっていたことでしょう。

5 駿府城の天下普請

駿府城は1585年・天正13年、
家康さまがそれまでの拠点浜松から
駿府に移り住むにあたって近世城郭として、
つまり日本のよくある城として修築されました。

その後、家康さまの関東移封に伴い、
一時期家康さまの手から離れましたが、
1600年・慶長5年の関ヶ原の戦以後は
徳川家譜代大名が駿府の統治を行い、
1607年・慶長12年家康さまは、22年振りに
駿府に戻ったのです。

幼少期から元服前後の青年期を過ごした
駿府に再び戻れたことは、家康さまにとって
喜びだったのではないでしょうか☺️🤚

そして家康さまは駿府城の #天下普請
諸大名にお命じになります。
天下普請とは、江戸幕府が諸大名に命令し
行わせた土木工事のことで、城郭だけではなく
河川や道路整備から港湾整備などまで様々な
インフラ整備工事を含みました。

そして、天下普請は諸大名にとっては、
中央政権への奉公、すなわち労働力派遣による
納税の一環であり、その労働力経費はすべて、
諸大名持ち、なのです💦

家康さまが天下普請をお命じになり、
それを諸大名が受け入れ実行していく、
そんな、武家の棟梁と家臣という図式が
1607年・慶長12年には、幕府・諸大名のうちに
共通認識として出来上がっていた、一例が
駿府城天下普請です。

いや、むしろ、家康さまは、
幕府と家臣という形が日本全国津々浦々の人心に
行き渡っていることを、内外に明示するために
駿府城の天下普請を今このタイミングで
お命じなさったのだと思えます😉🤚

天下普請に動員された諸大名は以下の
北国・西国の外様大名でした。

  •  #前田利長 さま

  •  #池田輝政 さま

  •  #毛利輝元 さま

  •  #蜂須賀義鎮 さま

  •  #黒田長政 さま

  •  #鍋島勝茂 さま

北国・西国の外様大名に天下普請を命じたのは
外様大名の資本力を縮小させる目的もありました。
1607年・慶長12年2月に着工した駿府城修築は
7月には完済しました☺️

6 ご子息たちのご逝去😭そして生き残るご子息たち

1607年・慶長12年の

お亡くなりになりました😭

四男松平忠吉さまは、1580年・天正8年生まれで
秀忠さまの同母弟です。たいへん聡明な武将に
育ちつつありましたが、28歳でこの世を去りました😭
忠吉さまは後継がいなかったため、甲府領にいた
徳川義直さまが尾張清洲に移封されました。

次男結城秀康さまは、1574年・天正2年生まれでした。
長男信康さま亡きあと、家康さまの子供たちの
長兄として、立派にいろいろな役目を、
例えば、石田三成さま佐和山蟄居時の護衛とか、
関ヶ原の戦時の、上杉勢南下の抑えとしてです。
しかし、やはり33歳という若さでお亡くなりに😭
松平忠直さまが後を継ぎました。

この1607年・慶長12年後半時点で
家康さまご子息うちご存命は

でした。

ちなみにこの中で六男・松平忠輝さまが
大名としては改易されるも、1番後年までご存命で
1683年・天和3年、5代将軍 #徳川綱吉 さまの
御代までご健在でした。文化人でもあったため
さぞかし面白い世の中をお過ごしに
なったことでしょう🥰

7 江戸と駿府・2つの首都

駿府城が落成すると、家康さまは駿府城を
居城とし家康さま・秀忠さまによる二元政治
状態となります。と、いっても、役割の棲み分けは
なされていて、

  • 秀忠さまは徳川総領国全般統治に加えて、家康さまが決定したことの形式的な発行

  • 家康さまは対外的な事柄、これまで話してきた朝廷・公家・門跡・外様大名・諸外国とのお付き合いをしていく

でした。
この状態は秀忠さまは、政権の後継者で
今はローカルエリアでの王様、
家康さまは日本全国を統治している最高権力者
ということです。

しかし、第3の政権後継可能性のある政治勢力として、
豊臣家もある、と、1607年・慶長12年ころの
南蛮人が本国に日本をレポート文書には
記されています。
このころ内外の人たちは豊臣政権復活の可能性も
あるとお考えだったのかと思います。

家康さまもそんな世間の思いは重々ご承知で、
江戸と駿府が実質的な日本の政治拠点であることを
示すための象徴的なことを行なっています。

伏見から駿府へ金銀財宝を異動。
金だけで468万両とのこと。
さらにこの異動の賦役として、畿内及び
丹波・備中・近江・伊勢・美濃の大名に人足を
出させ、さらに豊臣家や公家領地からも人足を
出させました❗️

8 駿府城家事で全焼🔥💦

1607年・慶長12年12月、
駿府城大奥の物置から出火🔥💦
駿府城は焼け落ちてしまいました💦💦💦

家康さまは、再度駿府城が築城されるまで
二の丸にあった #本多正純 さまの屋敷で
お過ごしになるのですつ❗️💦💦

9 次回

焼け落ちた駿府城でしたが、
諸大名からのお見舞いもあり、
1608年・慶長13年、夏には再落成❗️

豊臣家との確執も落ち着いている今、
家康さまは門跡・諸外国との外交の
基本的なルールや方法をお取り決めにっ❗️❗️
具体的にはどんな細かいことをなさったのかーー❓❗️


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