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徳川家康さま☘️をたどる#65☘️大御所家康さま周りの世代交代2

初筆 2023年 12月 22日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 65
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 家康さま #徳川秀忠 さまに #征夷大将軍 を後継させたのち #大御所 と呼ばれる。そして #松平姓 の下賜を始めた。諸大名を江戸幕府に臣従させるための布石。

  •  #禁中 ・公家衆・門跡・諸外国とのお付き合いは、家康さまは秀忠さまに譲らず、お手元に置く。

  •  #徳川四天王 の #酒井忠次 さま #本多忠勝 さま #榊原康政 さま #井伊直政 さまは関ヶ原前後にお亡くなりになり、徳川家臣団の世代交代が始まった。

  • 家康さまは旧 #三河家臣団 に冷たかったのではなくて、世代交代が進んでいただけ。

⬇️前回はこちら❗️

3 伏見の家康さま・江戸の秀忠さま

1605年・慶長10年4月16日、
秀忠さまが2代目征夷大将軍となったあと
しばらくは、秀忠さまは多くは江戸にあって
江戸の街の整備および徳川総領国・譜代大名の統治に
邁進しました。
また家康さまは多くを伏見で過ごし、
禁中・公家・門跡・諸外国とのお付き合い、
外様大名とのお付き合いの政務を執りました。

徳川家臣団の所領の監督は秀忠さまに責任を負わせ
そこで経験を積み、政治・経済・軍事の
基本を覚えていくことを、家康様は期待し
また秀忠さまはよく励みました。

家康様は吾妻鏡などの鎌倉時代の歴史書も
お読みになっています、鎌倉幕府における
源氏三代の失敗などに学ぶことも多く、
段階を経て、権限とそれを堅実に行使する経験を
秀忠さまに少しずつ学ばせていきました。

征夷大将軍職の実質の世代交代を目指したのです。

4 秀忠さま付きの家臣

秀忠さま付きの家臣うち年寄を話します。

  •  #大久保忠隣 さまは1653年・天文22年生まれ。三河以来の家臣団の1人・ #大久保忠世 さまの後継ぎです。徳川四天王の影に隠れて目立ちませんが、浜松時代から戦に出ていて、三方ヶ原の戦では家康さまが敗走・浜松城に帰城するまで家康さまをお守りしそばを離れませんでした。本能寺の変以後に切り取った甲斐・信濃の諸国の統治もよく行い、そのころ大久保長安さまを見出しています。1593年・文禄2年に秀忠さま付き家老に就任しています。翌年、大久保忠世さまが亡くなると、所領小田原を相続しました。関ヶ原の戦では秀忠さま率いる徳川本軍に従軍、信州上田城の真田攻めを主張し、本多正信さまと意見対立しました。

  •  #本多正信 さまはこれまで話してきた通り、家康さまの知恵袋で、三河一向一揆で家康さまと敵対し、いったんは徳川家を追放されたものの、家康さま伊賀越えのころには徳川家に帰参なさっていたと聞きます。ちなみに嫡男本多正純さまは大久保忠世さまの元で育てられたとのこと。1538年・天文7年生まれで家康さまの3歳年上です。徳川家が天下統一をするための、家康さま征夷大将軍任官をプランニングし裏で方々を調整したのも正信さまで、1603年・慶長8年からは出来たての江戸幕府で家康さま側近として幕政参与しました。また1605年・慶長10年、秀忠さまが征夷大将軍を継いだ後は江戸にあって、秀忠さま側近となり、嫡男正純さまを家康さまに付けました。

年寄に次ぐ年寄並、つまり、
大久保忠隣さま・本多正信さまを手本としつつ、
これからの時代に政務に携わる者として
以下の家臣が選ばれました。

  •  #酒井忠世 さまは1572年・元亀3年生まれで、#酒井雅楽頭系 (うたのかみ)の出自です。(酒井忠次さまは酒井左衛門尉系)。1592年、家康さまが関東入府したときに、父親とは別に武蔵川越領に5千石を賜り、このころに秀忠さま付きの家老に指名されました。1605年・慶長10年秀忠さま征夷大将軍任官後は、徳川家筆頭年寄になりました。

  •  #土井利勝 さまは1573年・元亀4年生まれで、家康さまの従兄弟に当たります。秀忠さまが誕生時から秀忠さまの傅役をし、成人してからはさまざまな局面で政治力を発揮して、1610年・慶長15年のころ秀忠さま付き老中に正式に任じられました。1616年・元和2年、かの有名な武家諸法度・一国一城令の制作に関与しています☺️

  •  #安藤重信 さまは1557年・弘治3年生まれで、小牧長久手の戦のころから戦場に出た記述が出始めます。怪力だったそうです🤣🤚1611年・慶長16年、秀忠さま付の老中に任じられました。

  •  #青山成重 さまは1549年・天文18年生まれで、1608年・慶長13年に老中就任しました。

このように秀忠さまには、征夷大将軍就任前から
徐々に家老をつけられていました。
また新世代の酒井忠世さま・土井利勝さまらは
旧世代からよく学んだご様子で、秀忠さま大御所時代に
幕政の中心人物となっていきます。

5 家康さま付きの新世代家臣・京都所司代

徳川家臣団の世代交代が進む中、
家康さまは、これから話すように
様々なジャンルの家臣を登用していきます。

家康さまは #京都所司代 を置きました。
その2代目に #板倉勝重 さまを
1601年・慶長6年に任命しました。
板倉勝重さまは1545年・天文14年生まれで、以前に
駿府町奉行・関東代官・江戸町奉行をご経験しました。

京都所司代は責任も重く、その分、権限も絶大で
以下のような政務を執る役職です。

  • 京都の統治(これだけで既に権力絶大💦)

  • 朝廷・公家の監察

  • 西日本の諸大名の監視

  • 五畿内と近江・丹波・播磨の民政

まとめると今の
京都府・大阪府・滋賀県・奈良県・兵庫県を
統治し、さらに西国すべてに目を光らせるという、
将軍と密に連携を取る必要のある
とんでもない役目でした。

家康さまが征夷大将軍の宣下を受けると
目を光らせなければならない事柄が
天文学的に増えて、自分や三河家臣団重役だけでは
手が回らなくなったゆえの京都所司代設置でした❗️

6 家康さま付きの新世代家臣・初期の江戸幕府のブレーン構成と本多正純さま

1605年・慶長10年、秀忠さまが2代目将軍と
なったころの実際の側近は

  • #本多正純 さまが家康さま付き

  • 大久保忠隣 さまが秀忠さま付き

  • 本多正信さまは両側近の情報と思惑の行き来を円滑にし調整を図る役割

でした。

本多正純さまは本多正信さまのご嫡男で
1565年・永禄8年生まれで、1600年・慶長5年、
関ヶ原の戦のころより家康さまに重用され始めます。

父親の本多正信さまと同じく
家康さまに様々なアイデアを進言したと聞きます。

7 家康さま付きの新世代家臣・諸代官

家康さまがこのころより重用を始めた
家老は以下のようでした。
のちに家康さまが伏見から駿府に居を移し
駿府にて家康さまに仕えたことから
駿府家老とも言われます。

  •  #大久保長安 さまは1545年・天文14年生まれで、経理や戸籍管理、金山銀山管理の才を買われました。

  •  #成瀬正成 さまは1567年・永禄10年生まれでのちの尾張徳川家の家老です。

  •  #安藤直次 さまは1555年・弘治元年生まれでのちの紀州徳川家の家老です。

  •  #村越直吉 さまは1562年・永禄5年生まれで、のちに播州池田家の政務補佐に向かったりします。

8 家康さま付きの新世代家臣・その他

家康さまは、政治・軍事・諸国管理のための
人材登用をしただけではなく、
多岐の新しいジャンルにわたって
家臣を召し抱えました。

僧侶や学者を召し抱えたのは、
徳川家が江戸幕府が今日の平和を作ったことの
諸大名や民衆に向けての広告・宣伝するため、また、
天下一統後の平和維持に必要な法律整備のためで、
以下が召し抱えられたうち有名なお方です。

  •  #金地院崇伝 さまは1569年・永禄12年生まれ #以心崇伝 さまとも呼ばれ京都南禅寺の僧です。家康さまの元では、法律の立案・外交・宗教統制をご担当。寺社諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度の起草もなさいました。

  •  #南光坊天海 さまは1536年・天文5何生まれで108歳まで生きた💦と言われてます。朝廷対策・宗教対策・世論生成術などて家康さまの参謀をなさいました。

  •  #林羅山 さまは1583年・天正11何生まれで、江戸時代の各種儀礼の根本精神を朱子学に置き、内外にその精神を普及させました。

また、家康さまは以下の方々も家臣にしたり
または昵懇となったりしました。

  •  #日野唯心 さま(公家)

  •  #後藤光次 さま(豪商)

  •  #茶谷四郎次郎 さま(豪商)

  •  #長谷川藤広 さま(豪商)

  •  #亀屋栄任 さま(豪商)

  •  #ウィリアムアダムス さま、別名 #三浦按針 さま(海外政策)

  •  #ヤンヨーステン さま(海外政策)

このように多岐にわたるジャンルについて
召し抱えが必要になるのは、
征夷大将軍という官職を代々受け継がせる
ということに、家康さまは大きな責任を
感じてらっしゃったんでしょうね❗️


9 次回

1607年・慶長12年に家康さまは
拠点を伏見から駿府に移します。
しかし、大坂上には #豊臣秀頼 さまがいるっ☺️🤚

家康さまは畿内を離れてもよいのかっ❓❗️
天下は乱れないのかっ❓❗️


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