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徳川家康さま☘️をたどる#3☘️じいさまの松平清康さま

この記事は有料ですが、しばらくは実質最後まで無料で読めます。
今とこ有料部分の文章は「ご覧いただきありがとうございました。」
のみですよ🤪✋

またこの記事と同じ内容を音声で聞けます。
スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#3
⬇️
https://stand.fm/episodes/639e4bda344e4bc9a08c0ed3

徳川家康さまは
『ちょっと気の利くフツーの人』
やったのではないかという仮定に基づき
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
こんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつ勝手に思いを巡らす、
家康さまファン🥰の思いを皆さまに届けます。

1 前回

前回は、家康さまの
1549年(8歳)〜1560年(19歳)
の人質時代ってけっこう
フツーに暮らせてて
「今川家家臣見習い」みたいな教育を
ちゃんと受けられてたんやろう、
ゆう話しました。

前回記事はこちらですよ☺️
⬇️

2 今回概要

今回は家康さまの祖先の話をしつつ
徳川家の文献による権威付
国衆がまとまるための要件
などさらりとお話します。

なんでさらりか言うたら
家系図みたんですよ。

3 家系図ややこしい名前だらけ

家系図みたら

親氏
泰親
信光
親忠
長親
信忠
清康
広忠
家康
っていう覚えにくい名前の主家代々と合わせて
親戚・分家40人くらい名前出てきて、
こんなんが記事にがががーーーと出てきたら読む気なくなるやないですか💦

さらに
牧野とか
戸田とか
水野とか
奥平とか
小笠原とか
大久保とか
酒井とか。。。

かなりややこしい
こらさらりにしとかんと
わけわからんことになると。

4 家康さまのじいさまは松平次郎三郎清康

なのでこの記事では
じいさまの清康さまとその時代に特化して
話をします。

「三河物語」という江戸時代初期に
書かれた文献があります。
作者は大久保彦左衛門忠教(ただたか)さんです。

家康さまのじいさんは名君だが
惜しいことに若いころに
騒動に遭い殺害されてしまった。
→守山崩れ

『30歳まで生きていたら清康さまの元に天下は収まったであろうに』
の記述が三河物語にあり。

清康さまは家康さまと共通して
「康」の字が入ってるということで
先祖が素晴らしかったという
徳川家の血脈の権威性を出そうとしてる感が
三河物語にはあり。
まー代々譜代の家の大久保彦左衛門忠教さんが書いてるんですから
そーなりますわなぁ💦

他の書物と併せて
清康さまのことを調べてみた。
実際ある程度実績が確認できるようです。

25歳で亡くなるまでに
東三河で影響力を身に付け
従属する国衆(くにしゅう、国人領主)を
増やしていった。
⬇️
清康さまについといたら
国内無事=国内の平和が保てるででいられるで
と周囲の国衆が思うようになってくる
⬇️
清康さまは
国衆一家一家について無事を考える、すなわち
「国内惣無事」を考えられる人であった
あるいはそういう体制を作ることができる人であった

信定おじさんと若干不仲で
おじさんがそのとき敵方の織田信秀と内通のウワサが立つ
その影響下での家臣団の動揺の中、
1535年に家臣に刺されて亡くなってしまいます。

新田源氏の世良田性を名乗り
世良田次郎三郎清康
1511〜1535
享年24歳



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