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徳川家康さま☘️をたどる#45☘️小牧・長久手の戦い

初筆 2023年 7月 29日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける:徳川家康さま☘️をたどる#45
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1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 清洲会議は織田家の当主を決める会議ではなくて、信長さまのお孫さまの三法師さま成長を待つ間の名代を決める会議であった。

  • 信長さまの、次男信雄さま・三男信孝さまの2人対立が始まり、宿老も2分、信孝さま・柴田勝家さまは滅ぼされた。

  • 事態の収拾・民間の和平能力を世間が認め、羽柴秀吉さまを時期天下人へ押し上げた。

  • 秀吉さまは織田家を畿内から追い出し、家康さま所領や近辺にも口を出し始めた。

  • 信雄さまは家康さまを味方に引き入れ秀吉さまに宣戦布告っ❗️💦

前回はこちら
⬇️

3 家康さま小牧山城へ

1584年・天正12年3月に、織田信雄さまは
秀吉さまと対立するご自身の意思表示として
親・秀吉家臣を亡き者にしました。
それを受けて家康さまはソッコー軍を率いて
信雄さま居城の尾張清洲城に入りました。

この状況を知った羽柴秀吉さまは
伊勢・尾張方面に出陣、途上にある
信雄さま所領の伊賀は秀吉さまに降りました。

いっぽう秀吉さまに与する、
池田恒興さま・森長可さまは尾張に出陣、
犬山城を陥としましたが、徳川軍と激突、
家康さまは恒興さま・長可さまを降し、
小牧山城に入りました。
秀吉さまはその近所の楽田城に入り
睨み合いが続きます。

小牧長久手の戦いは始まりました。

4 小牧長久手の戦の両軍はなぜ対立する❓

小牧長久手の戦の交戦勢力の立場を
考えてみましょう。

⚫︎織田信雄さま

  • 織田家当主

  • 動機:織田家は天下統一直前であったのに、畿内での実権を、織田家重臣も含めて、羽柴秀吉さまに持って行かれた

  • 大義名分はあり。織田家から見れば、秀吉さまの動きは謀反に近い。ただそれは形式的で、世論は秀吉さまを天下人に推している

⚫︎徳川家康さま

  • 織田家ご一門衆であり、徳川・織田同盟は1984年現在でも存続

  • 動機:羽柴秀吉さまが信濃・関東の仕置きに口を出してウザいところに、信雄さまが秀吉さまに織田家当主として宣戦布告し、渡に船🤣として。家康さまとしては、徳川家の実力を秀吉さまと世間に見せておきたかった

  • 家康さまには交戦する大義名分がない🤣🤚あえて言えば「織田家家臣」として

⚫︎羽柴秀吉さま

  • 織田家重臣から立場が変わり、天下を収められる人物と後押しをされそのつもりに

  • 世間には直前まで天下を治めていた織田家が、幸いにも宣戦布告してきたので、織田家は天下を治める力はないということを、世間に知らしめるため

  • 秀吉さまにも大義名分はない。ただ世論は秀吉さまに平和な世の中を作ってほしいとの期待あり。なので、自分から戦を仕掛けられない。信雄さまから戦を仕掛けてきてラッキーと思っている。

このようなお立場と動機で
織田・徳川連合軍🆚羽柴秀吉軍(+元織田家家臣ほとんど)が戦ったのが小牧長久手の戦いです。
言うたら、政権交代・大人の事情、の戦いですね🤣🤚


5 遠隔地への影響

小牧長久手の戦いで
家康さまは、秀吉さま+織田家元重臣ほとんど、と
対立したことを、不安視した信濃の国衆に
以下のような影響・動きがありました。

  • いったんは家康さまに帰属していた信濃西部の木曾義昌さまか家康さまから離反。秀吉さまへ従属。

  • 木曾義昌さまに同調し家康さまから離反した、伊那の知久頼氏さまは、三河国衆の菅沼定利さまに平定された。

  • 菅沼定利さまは、木曾義昌さまと対峙

  • 北関東の国衆は秀吉さま寄りになり、信濃国には、徳川家に従属していることに不安を覚える国衆も現れてきた

このように徳川家の新領でも
自ら統治していた甲斐・駿河と比べて、信濃は
自領を安泰にできる大名に帰属したい
地元国衆の自治統治に任せていたので
不安定要素がいまだ多かったのです。

織田信長支配下の家康さまには帰属するけど
フリーとなった家康さまでは心許ないと
感じる国衆も多かったのですね💦💦


6 長久手で局地的戦闘に勝利する家康さま

小牧長久手の戦いで結果の出ない
小競り合いが続く中、大きな戦闘が起こります。

小牧長久手の戦の初戦で
徳川軍に軽く襲撃され後退した
森長可さま・池田恒興さまは、後退の汚名を注ぎたい
気持ちもあり、秀吉さまに「中入り」作戦を提案❗️

中入りとは、目の前に戦闘地に
多くの兵を割いて、手薄になっている
敵の本拠地を襲う作戦です。
敵は本拠地が陥とされては一大事、
目の前の戦闘に集中できなくなります。
また敵が膠着状態の目の前の戦闘地を放棄して
本拠地を守ろうとすると
目の前の敵に押されてしまいます。

小牧長久手の戦では、秀吉さまへ策を献上した
森長可さま・池田恒興さまが、家康さま本拠地の1つ
岡崎に向かう動きを見せました。また秀吉さまは、
羽柴秀次さま(このころは三好信吉さま)・堀秀政さま
も別働隊で岡崎に向かわせました。
1584年・天正12年4月6日のこと、
その2日後には織田・徳川方の尾張岩崎城を
陥としました。

この事態を知った家康さまはスグさま
小牧山城より出陣、この出陣を対峙する
羽柴軍本隊は気づかなかったのがラッキー☺️
榊原康政さまが深い掘りを小牧山城に作っていて
そこを通って出陣したとのこと。
家康さまは優秀な部下を持ってますねえ🤣😉

そして、羽柴秀次軍を撃破、ほうほうのていで
逃げ帰る秀次さま。この様子をみて
危険を察知した堀秀政さまは少しだけ
徳川軍にダメージを与えてから戦線離脱。
池田恒興さま・森長可さまは家康さま本隊に討たれ、
中入り作戦は失敗、羽柴軍は大量の戦死者を出し、
徳川軍勝利の情報が内外に広まりました。

この羽柴軍中入り作戦と徳川軍の攻防を
まとめて長久手の戦いと呼びます。
この戦での勝利で、家康さまはのちの豊臣政権の中での
地位を確保したと言っても過言ではないです☺️🤚

その後、小牧長久手の戦いはまた小競り合いが
続いていきます。長期化するこの戦に
講和案が出たのが8月、しかし決裂💦


7 信雄さま勝手に和議。大義名分のなくなる家康さま💦

秀吉さまは1984年11月、信雄さまの本拠地の
伊勢を攻撃、家康さまは救援に向かうものの
弱腰となった織田信雄さまは、家康さまに相談なしに
秀吉さまと和議を結びました💦💦

信雄さまは形式上は織田・徳川連合軍の総大将、
形の上では家康さまは織田家の援軍という扱い、
総大将が和議を結んだら、救援軍は従うのが当たり前。
家康さまは仕方なく、ホコをおさめ、条件をのみ、
11月自領へ帰りました。

家康さま・信雄さまとも人質を秀吉さまに
出しました。このとき家康さまは
次男の義伊(のちの結城秀康さま)を
大坂に出しました。

戦闘では、家康さまか優位にありましたが、
戦略的に信雄さまのスキを攻めて、
畳み込むように和議を結んだ秀吉さまに
分があった小牧長久手の戦いはこうして
終わったのです。

家康さまも名を上げられてよかったんちゃう❓
もしこのままダラダラ小牧長久手の戦いを続けてたら
ジリジリ劣勢になった思うよー🤣💦💦

8 次回

小牧長久手の戦いは秀吉さまと、
織田信雄さま・家康さまの勢力争いという
だけではなく、日本全国に影響を及ぼし、
日本全国の勢力分布に大きな変化をもたらしました。

まさか家康さまはそこまで考えて
小牧長久手の戦いせんやった思います💦
家康さまっ❗️説明したげるわー🤣🤚


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