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『嘔吐』を読む(30)──火曜日「私は自由だ。つまりもう生きる理由はいっさいない」

 先回私は、感情が人間を動かすのだと述べた。ただし、感情、すなわち感じることは、決して考えることと切り離されたものではなく、思考と深く結びついているのである(分類することにさえ無理がある)。
 心の動きには理由がある、とわれわれは考えている。それは、身体的また生理的状態の変化による反応としてはもちろん、複雑微妙とされる心理的変化も、決して偶発的なものではなく、何らかの原因があり、いくつかの条件によって生じたものと考えているのだ。心理学とは、その因果の過程を解明しようとするものである。そして、近年の認知行動療法の普及等を引き合いに出すまでもなく、われわれの心は、多くの場合、言語とそのロジックの動きによって変化していくものとして説かれているのだ。
 こんなことを確認したのは、かつての遠国での冒険の日々が消え去り、没頭してきたロルボン伝の執筆を打ち切り、ブーヴィルに滞在する必要もなくなり、さらに元の恋人とも別れた(捨てられた)この若者が、自分の今後をどう考え、どう思い、どう行動するかが気になるからだ。彼は一体何を問題とし、それをどのようなロジックで考えようとしているのか。
 パリからブーヴィルに戻った火曜日、ロカンタンはその日記をこう書き出す。

《これなのか、自由というのは? 私の下の方には、いくつもの庭がゆったりと町に向かって下って行き、その一つひとつの庭には一軒の家が建っている。私はどっしりと動かない海を見る、ブーヴィルの町を見る。素晴らしい天気だ。》(火曜日 ブーヴィルにて)

 まずはほっとして、上天気の海辺の町を眺めたというわけか。だが、すぐに続けて、言葉は核心にふれるのだ。

《私は自由だ。つまりもう生きる理由はいっさいない。私の試みたすべての生きる理由は瓦解した。それ以外の理由はもはや想像することもできない。私はまだ若く、やり直すのに充分な力を持っている。しかし何をやり直すべきなのか?》

 やはりそうか、道を見失ったというわけか。だが、これはかなり深刻な物言いといえるだろう。
 「私は自由だ。つまりもう生きる理由はいっさいない」の原文は、「Je suis libre : il ne me reste plus aucune raison de vivre」である。このコロン「:」を、翻訳者の鈴木道彦氏は「つまり」に置き換えたのだ。これはやや強いが、分かりやすい訳である。そこでは、〈私はいま自由である、それは私を拘束するものがもうないからだ。だが、その私を拘束していたものは、私の生きる理由でもあったのだ〉というロジックが読み取られているのだ。
 「自由」と思うことと「生きる理由がない」ことは、直接そのままではつながらない。生きる理由があって自由と感じる場合もあり、また、生きる理由がなくて自由もないと感じる場合もあるだろうからである。感じ方のロジックは多様である。だがここでは、「自由」とは「生きる理由」がないことだ、とする強引なロジックが本人をとらえ、読み手をもとらえるのである。
 ロジックの動き、すなわち文脈や文意の論理も多種多様である。それが、自分の裡で、あるくっきりとした流れとなるとき、われわれは強い心的変容を経験するのではないだろうか。
 これは、〈私は自由だ。だからもう生きる理由も不要であり、死ぬ理由も不要なのだ。勝手に生きようと死のうと自由なのだ〉といった“自由賛歌”のロマンチシズムとは異なった思考なのだ。ここでは、「自由」という望ましいはずの状態が、むしろ自分を逼塞させるものであるというロジックが、危機感とともに思考され感受されているのである。
 〈私は自由だ:もう生きる理由はいっさいない〉とは、そうした思考と感情による生の危機感の表出なのだ。自由をこそ追求したはずの作者が、〈自由とは危機だ〉というところまで主人公(もう一人の自分)を追い込んでいったことは、私をとらえる。
 だが待て待て、〈自由という危機〉、すなわち生きる理由もなくなった状態とは、むしろわれわれ老年のものではなかったか。それはのびのびとした解放であり、かつまた、荒涼としたひろがりである。ゆったりと安逸をあてがわれつつ、いつ瓦解するともしれぬ境地なのだ。
 「すべての生きる理由は瓦解した」など、まだ若者には言う資格がない。われわれ老人こそが胸を張って、そう言い残すことができるのだ。そして、その結果は自死であろうが、病死であろうが、変わりなく自然死と見えるのが、まさに長年を生きた者の功徳なのである。かの川端康成の死のごとく。

《恐怖と嘔吐感の最もひどかったときに、自分を救ってくれるものとして、どれほどアニーに期待をかけたことだろう。それが今になってやっと分かった。私の過去は死んだ。ロルボン氏は死んだ。アニーが戻って来たのは、私からすべての希望を奪うためにすぎなかった。そして私は、いくつもの庭のあいだを走るこの白い道の上で独りきりだ。独りきりで自由だ。しかしこの自由はいくぶん死に似ている。》

 ロカンタン君、アニー嬢もロルボン伯も、まだまだ君の青臭い生の一部にしか過ぎないのだ。短い「過去の死」などより、この先の長い「未来の生」の方がよっぽど苦しいのでは、とでも思うならまだしもである。アニーが奪ったのは君の希望ではなく、彼女の希望ではなかったのか。

《独りきりで自由だ。しかしこの自由はいくぶん死に似ている。》

 それにはまったく同感だ。若かろうが、老いていようが、われわれの自由はつねに隠し味のように死を含んでいる。

《今となっては、私もアニーのようにするだろう、私は余生を送るだろう。食べて、眠る。眠って、食べる。そしてゆっくりと、静かに、存在するのだ、あの木々のように、水たまりのように、電車の赤い座席のように。》

 これも結構。ただし、原文は「je vais me survivre」、つまり「私は生き延びるだろう」である。それはしごく普通の人間の生活であり、みな何とかこの世を生き延びているのだ、食べて、眠って。むろん、中でも老年のそれはことさらに醜く、あからさまなものと見えるだろう。
 ことほどさように、われわれはくっきりとした流れとしてのロジックを求めているのだが、はたしてどうか。さらには、無意識や超自我などといったやっかいなものまであると信じられているのだ。
 どうやら、われわれはいかに賢くなろうとも、自分の心の動きすらコントロールできない、ということは確かなようである。
 だからこそ、言葉による小説などというものが、いまだに読まれ続けているのだろう。

#サルトル #嘔吐 #ロカンタン #感情 #ロジック #小説

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