見出し画像

「いつまでも被災者だという不幸に甘んじるわけにはいかない」遠藤雄幸川内村長にお聞きしました

間もなく3.11から10年を迎える。この間、被災地は多くの困難を乗り越えて復興してきたが、特に福島県の浜通りでは少子高齢化、過疎化が急速に進展し、社会機能をいかに維持するかが大きな課題となっている。あたかも私たちがタイムマシーンに乗って未来に行ったかのように、いずれ来るだろう課題を先んじて見せつけられるようだ。

ではその課題、先進国・日本の中の課題をいかに読み解き、先進地・福島において何をすべきなのか。避難指示を経験した中でも、中山間地域にあり決して交通や生活の利便性が良いわけではない川内村の取り組みは、一つの可能性を我々に見せてくれているように思う。社会学者の開沼博氏とともに、福島県川内村の遠藤雄幸村長から話を聞いた。

この対談は、2月28日に出版された『東電福島原発事故 自己調査報告』(徳間書店)に掲載されています。

<Amazonで購入できます>

細野  今日は開沼さんと川内村にやって来ました。ここ蕎麦酒房天山と隣接する小松屋旅館には何度も宿泊をしましたし、村長ともここでいろんな話をした記憶があります。川内村には、もう8割の人が戻ったんですよね。これはすごいことだと思います。

遠藤
 ただ、まだ2割の住民が避難している現実もあります。

細野  村長が帰村宣言をされたのは2012年の1月でした。その直後に環境大臣として川内村に説明に来た時のことは鮮明に覚えています。当時の住民の皆さんの受け止めを考えると、8割戻るとは想像できなかったですね、私は。

遠藤  そうですね。細野さんには川内村の住民懇談会にも出席していただきました。あの時はとても寒い日で、雪も降っていました。僕自身も帰村宣言をして、さあこれからというタイミングでもありました。帰村を決断するのは、かなりしびれる時間を過ごしてきたうえでの宣言だったんです。

画像4

細野  初めてお会いしたのが、震災から2、3カ月後の郡山の避難所だったと思うんですけれども。状況が厳しいにもかかわらず、遠藤村長は前向きだった記憶があります。その後も常に明るく前向きだった遠藤村長が、あの会見の時だけは悲壮な表情でしたね。

遠藤
 そうですね、顔がひきつっていました。

細野
 私はあのテレビ中継を生で観ていました。遠藤村長のそうした姿を見て、これは我々も何かアクションを起こさなければと思い、その日のうちに関係部署に指示を出しました。とにかく全力で川内を支えようと。そうじゃなきゃどこも帰れない。

遠藤
 帰村宣言の準備段階では、まずは村のお医者さんを見つけるのに苦労しました。お医者さんがいないところには住民も戻らないわけで、復興事業も進まないんですよ。「先生、俺はチェルノブイリに行ってきたけど、こういうことだよ」って素人の僕がお医者さん相手に放射線のことを話したこともあったくらいでしたから。放射線への不安を理由に嫌がるお医者さんも少なくはなくて、長崎大学の高村(昇)先生にお願いしたりしながら、いろんなネットワークで探して何とかつないだのを覚えてますね。

日本のエネルギーの一翼を担ってきた

細野  川内村では住民の対立は、あまり見えなかったように感じられます。川俣とか飯舘はすさまじかったでしょう。飯舘の菅野(典雄)村長は、すごく苦労していましたし。

遠藤  すさまじかったですね。菅野さんもそうだし、川俣の古川(道郎)町長も、途中で病に倒れちゃったんですけれど。ただ、原発から20㎞圏内と30㎞圏内の人の間での賠償額の違いで、やっぱり住民感情は複雑になりました。

細野
 どうやって乗り越えたんでしょうか。

遠藤
 川内の場合は、20㎞圏内に比べて賠償額が少ない30㎞圏内の人たちが圧倒的に多かったこともあるかもしれませんね。また、20㎞圏外の人でも、精神的な賠償やその他森林への賠償が全くなかったわけではないので、そういう面で住民は、まぁしょうがねぇなぁと思ったところもありますけどね。

細野  川内の人はおおらかだったんですかね。私が各地で説明をした時にいろいろなことを言われましたけど、川内では刺すような感じはなかったんです。これ、実際どうするんだ、安全なのかと。ちゃんと答えてくれっていうのはあったんだけれど、最後には拍手までいただけた。川内の人の気質なんでしょうか。

遠藤
 そこは地元の自治体である我々が前面に出て、まあ、しっかり対応したっていうのもあるのかも。住民の声を受け止めて、最終的にいろんなことを中央に要望したのは地元の自治体だし、そういう面ではガス抜きの役割も果たしてきたところがありますかね。ただ、心強かったのは、きちんと政府がね、しっかりサポートしていくんだよっていうことを細野さんの言葉から感じられたんです。そこは我々も意を強くしましたし、4月には学校や行政機能を再開しても何とかやれるかなっていう思いもしましたね。
 川内村の自立独立の気質もありました。日本のエネルギーの一翼を担ってきたわけだし、常磐炭鉱の坑木として川内村の材が使われていたという経緯もあります。
 でも振り返ってみるとね、昔からいろんなものと戦ってきたけれど、何と戦ってきたのかって考えてみると、「貧しさ」だったんだなってつくづく思うんですよ。そのうえで、原発事故後はいろんな不条理とか軋轢、ジレンマ、いわれなき偏見差別、そういうものとも戦ってきた10年間だったかなって。何かいつも、こう背中から押されて緊張していた日々を送ってきたかなというのはありますね。
 ただ、それが僕にとって、じゃあネガティブでマイナスだったのかというとそうではなく、かなりエキサイティングでポジティブな時間だったと思います。

細野
 政治家冥利に尽きるというか、我が人生悔いなしみたいな感じだったのでしょうか。それは分かる。
 川内村では工場などの仕事もだいぶ増えて、少しずつ活気が戻ってきました。他の町では住民が戻らず苦労している中で、開沼さんは、川内村がここまで復興した理由は何だと思われますか。

画像9

開沼  一つは時期の問題です。なかなか帰還が進まない他の自治体というのは5年も経つと、もういわきとか郡山の都市部で、小学生だった子供が高校生になっていたけど村に戻ったら通学が大変になる、いまから転校はできないよねとか、お父さんお母さんの仕事ももう変わってしまって職場に馴染んでいる。おじいちゃんおばあちゃんはかかりつけの病院ができてしまう。そうなると特に、元々中山間地域のここに戻ってくるということが難しくなってしまう。病院が再開していないような自治体は他にもありますから、そういったところで時間という変数が足かせとなって、今も問題を長引かせているところはあります。その中で、川内村は村長のリーダーシップであったり、地域の方々の努力が相当早い時期からあったというのは、今の復興状況の背景の一つなのかなと。あとは、「よそ者の力」、移住している方を積極的に村に入れていこうというような策も打たれている。新しい産業がいくつも生まれ、工業団地も整備した。そういったことが今の結果に生きてきているのかなと思いますね。

避難することがリスクになる

細野  川内村が大阪から誘致した工場で作られている蓄光標識「ルナウェア」は、タイの洞窟で遭難した現地の子供たちを救ったということで話題にもなりました。

ルナウェア

震災後に造られた野菜工場も成功しているし、今度はワインもやられるとのこと。新しい産業を興すことに成功した理由は何ですか。率直に言って、川内村は立地や交通の便なども含め、決して条件がよいところではありませんよね。

遠藤  復興にあたって、私は2つのことを考えていました。まず一つ。被災地の住民は、自分が被災したという意識は強いですよね。先ほど自立独立の気風のお話が出ましたが、原発事故によってそれが失われた部分もやはりある。その被災者の意識をどう自立の意識に変えていくかです。
 やはり自分の人生設計の中で、いつまでも被災者だという不幸に甘んじるわけにはいかない。どこかでやはり震災前のような生活、自分で判断して行動できるような、そういう生活パターンをきちんと確立していかなければいけないんだろうと思います。これは、やっぱりチェルノブイリに行って見てきたというのが大きかったですね。特に、避難することのリスクというか。

開沼
 今となっては大規模に避難を行ったり、避難によって生活環境が激変したり、それが長期化したりすることが地震津波以上に多くの人命を奪い、そうではなかった人にとっても命を奪われるに等しい負担がかかるリスクがある、そして街に取り返しのつかないダメージを与え得る。そのことは様々な調査・研究から明らかです。ただ、当時は、避難のリスクを表立っていうことは難しかったでしょうし、今も全国的に見ればその点の認識は更新されていないままにあるでしょう。つまり、「避難に疑問を挟むということは、非倫理的なことだ」という感覚は残ってしまっていますね。

細野  そのリスクは我々も考えたんです。高齢者とか老人施設の避難なんて、避難のほうがリスクは大きいって分かっていたんだけれど、そこで介護する人や医療関係者で若い人が避難しちゃったら、もうどうしようもない。3月12日の時点から、その議論を官邸の中でもやっていたんです。

遠藤  キエフに避難した団体の話を聞いてきたんですけど、生まれ育った故郷にノスタルジックなものはあっても、そこは社会主義の国ではありますから、当初は新たに住むところと仕事を与えられれば、まあ、それでいいかなみたいなところがあったとのことです。しかし結局、生まれ育ったところから一気に環境が変わった都会に行くと、若い人でさえも沢山の人が体調を崩してしまった。
 その後、実はチェルノブイリの30㎞圏内に隠れて勝手に戻って、何年も住んでるっていう80代の老夫婦にも会ったんですよ。若い頃、最初は避難したものの体調を崩しちゃって、もう家に帰りたいと。それから25年以上、俺らは元気に生きているよと。ところが俺の友だちは、キエフに避難していたけど早く亡くなっちゃったよ、と。

開沼  僕、チェルノブイリ原発事故の被災地、ウクライナに2回、ベラルーシに2回行ってますけれど、それだけ回数を重ねてやっと現場にある現実が見えてきたなというところです。その本質を、あの時期に行って短い時間でも摑んでこられるのが遠藤村長なんだなと、いまのお話を伺って改めて思います。
 これは誰でもできることではないんです。だって、チェルノブイリ関連の情報を日本語で検索すると「もう何割が病気になってるんだ!」みたいな、デマ情報にしか行き当たらない。実際に現地に行った人も、デマばかり摑んで帰ってくることがあるんです。それは予断があるから。福島に予断をもって向き合う人には福島のネガティブな情報しか見えず、調べれば調べるほど、デマを信じ込んでしまう人もいまだにいるのと同様に。
 おっしゃる通り、現地に行っていわゆるサマショール(自発的に帰郷した者)という人たちに話を聞くと、戻ってきた俺ら元気だろ、俺ら見ろよというような話をする。もちろん、それが全てではないにしても、他の現場、立場の人にも向き合ったうえで、これを福島に持ち帰るべきと思われたということなんですね。

ひとり親世帯移住サポート政策

遠藤  復興にあたって考えたことのもう一つは、確かに事故はとても不幸なことですけれど、ひょっとしたら、そのことによって今までできなかったことができるようになる、あるいは逆に止めるタイミングを逃したままだったものをどこかで止める、そのサプリメントのような役割を果たしてくれるんじゃないかなっていうふうに考えました。その中で、今まで村にはなかった産業を立ち上げたり、企業誘致を積極的に進めたり、新たな学校を立ち上げたりというような取組を進めてきました。住民の人たちにも村の目標にしっかりと協力をいただいて、新たな産業づくり、新たな学校づくり、さらには人づくりをやろうと思いました。

細野  そうした帰村宣言後の川内の動きについて、開沼さんは先ほど、よそ者が活躍したとおっしゃいましたけれども。

開沼  特徴的な取り組みの一つに、川内村は例えばシングルマザー、あるいはシングルファザーといったひとり親世帯の移住にいろんなサポートをしてきたということがあります。
 震災後の福島の問題に普遍的に言えるんですけれども、日本のいろんな課題、例えば高齢化だとか少子化、医療福祉や教育などの問題をよりひどい形で、20 年、30 年、タイムマシーンに乗ったみたいにより早い形で受けてしまったというのが、たぶん、3.11の結果の一つであると。それはピンチではあるが、逆に社会の弱い面をどうサポートしたうえで地域の強みにしていくのかっていう実験をする機会を与えられたとも捉えることができます。ひとり親世帯をこの小さな村で支え、それを強みにもする。こういった形で日本全体がこれらの問題により深刻に直面する20年後、30年後に向けた対応モデルを作れたらいいんじゃないかと思いますね。
 他にも、村を上げてぶどう畑を作っていて、これでワイン作ろうとしていることなども含めてチャレンジ精神に満ちている。もちろん、中にはうまくいかないことも、これから出てくるかもしれないけれども、それでもいろんなチャレンジをして成功事例を作っていくっていう姿勢が常にある。そのこと自体に大きな価値があるんではないでしょうか。

遠藤  開沼さんのお話にもあったように、子育て世代の帰還が進まなくて。川内では2016年度から中学生以下の子がいるひとり親世帯に支援を始めました。具体的には50万円の引っ越し費用を負担し、住宅補助や就職先の紹介も行っています。最初のうちはあまり反響がなかったんですが、何年か続けたところ、次第に村にゆかりのない人たちが移住してくれるようになったんです。

細野  それはすごいですね。川内村ではさらに、次の春からは小中学校と保育園を同じ敷地内で運営するとも伺っています。保育園までも含めたというのは、やっぱり移住したひとり親世帯へのサポートも含め、川内村で小さいお子さんを育てるお母さんお父さんに配慮したということですか。

遠藤  そうですね。今まで保育園と小学校、中学校でそれぞれ独立していたものを連携させ、0歳から15歳まで一貫した流れの中で子供を育むことができる環境を作り上げようと考えました。

細野  ひとり親の移住サポート政策を打ち出した背景には、村民の8割が帰村とはいっても、その中で若い人の比率が低いという事実はあるわけですよね。そこを今後どう乗り越えるかですね。

遠藤  今も村民の2割の方は村を離れたままです。その2割中の6割、半数以上は実は子供たちがいる世帯。子育て世帯なんです。
 ですから、先ほど開沼さんがおっしゃった通り、やっぱり進学のことを考えると選択肢の多い都市部、郡山とかいわきがいいよねっていう親が増えてきているのは当然なんです。教育については、復興を進めていくうえで最難関課題なんですね。壊れたものは修復したり、大概のものは新しく作ってきましたけれども、教育や子育てに関しては一番ハードルが高い分野だったんです。

除染後の肥沃な土壌の使い道

細野  やはり、今の課題は放射線不安とは別のことにシフトしているんですね。実際、川内村は除染も終わった感じですよね。

遠藤  ええ。ただ仮置き場には少し除去物が残っていて、2020年度中を目途に撤去作業中であり、今後は仮置き場の跡地をどうするのとか、という話が出てきますけど。

フレコンバッグ

細野  除去土の再利用も少し考えていただけないかなと。もちろん、放射線量が高いものは除去し、一般的な土壌とリスクに差が出ないレベルに安全性が確認されたものを、相当安全に寄せた数値で区切って、それ以内なら受け入れますよという形でもいいので、そういう流れができ始めると本当に変わるんですよね。それを東電管内でやっていきたいと思っていて。そういう流れの起点を作るのが、特に難しいことだとは思うんですけれども。

遠藤  そうですね。

開沼  除染は、対象となる土地の表土を剥ぎ取る形で行われますが、農地の表土っていうのは、長年栄養を混ぜて管理されてきた肥沃な土壌だったりもします。だから、農家が除染された土を見た時に「これは良い土なのにもったいない」と言うのはよく聞きます。そういう背景も知られるべきです。

細野  なるほど。見たら確かに良い土なんですよ。

開沼  この栄養ある土を使い、さらに高単価で売れる作物を作れる方法も教えますから使ってみないか、という支援もあり得るでしょう。ただ「安全を確認しました」ってだけではマイナスをゼロにしたというだけの話です。そうではなく、ゼロからプラスに変える。
 実際に農業の支援という意味では、福島大や東大、東京農業大などが県内各地で熱心に支援をしてきています。初期から現場に入っているから、除染の経緯や安全性の確保の方法もよく分かっています。もちろん、高付加価値の作物をつくるノウハウもあります。そういった連携もできるでしょう。

細野  当初から、再利用するということは言っていたんです。大量の土を全部どこかに持っていくことは物理的に無理なわけですし、実際のリスクの差を無視して全てを十把一絡げに「放射性廃棄物」としたままでは、復興のために本当に必要だったはずのことに時間やコスト、土地といったリソースが充分回されることなく浪費されてしまう。やっぱり、リスクがなくなった除去土は有効利用していかなければ。消波ブロックでもいいし、路盤材でもいいし。実際に有効に使えたという事例を積み重ねていきたい。 この件は、福島県外での動きが一つのポイントだと思っています。そういう日本的な助け合いの精神が出てくるといいなぁって。

遠藤  それは、処理水の分散よりもずっと実現可能性がありそうですね。

細野
 ありますね。実際、肥沃な土地であればあるほど土は有用だから。私はチャレンジしていきたいと思っています。開沼さんは今後の川内村の課題をどうご覧になっていますか。

開沼  やっぱり移住者や企業の誘致は、今後も継続的にやっていく必要があるでしょう。一方、双葉郡全体がそうだし、川内村は尚更そうですが、交通の便が良いか、都会みたいな利便性があるかというと決してそうではない。だから、いきなり移住したり、起業しますっていうのは多くの人にとっては相当ハードルが高いし、日本全体が疲弊している中で、これからますますそうなっていくと思うんですね。
 重要なのは、その前段階くらいのところ、いわゆる関係人口とも呼ばれるような、何らかの関心や関与する部分を持ってくれる人を増やしていくことが重要です。震災があったところだし、いろいろ頑張っているんだよっていうブランドを逆に使っていくことも重要だと思います。川内村は、マラソンであるとか、トライアスロンにもチャレンジしています。そうすると、外からいろんな人がその日一日だけでも来て、ああ、この風景いいな、気に入ったな、ちょっと引退したら住んでみようかなとかですね、そういう長いスパン、広い視野で考えていくことも重要かなって思います。

遠藤  人口の減少は実は震災によって起こっているのではなく、それ以前から与えられた課題でもあったんですね。ただ、震災によって急に短時間で急激な人口減少が生じてしまったというところはあります。
 私は以前から新しい人たちを迎え入れて、新たな風土、新たな村づくりができるといいなっていうことを考えていたんです。そこで、移住者向けの様々な優遇策を立ち上げ、村外の人に手を挙げてもらえるよう取り組んできました。例えば、子育てってやはりお金がかかりますよね。保育所の無料化とか給食費の無料化とか、あとは川内から通える学校に通学する場合には通学費用を補助したりとかですね。そういったことを、特に震災後ですけれども、ここ3年、重点的に施策の中心に持ってきて展開してきました。

町村合併という選択と集中

細野  今は村内に高校がなくなったこともあって、進学の問題もそうだし、医療や買い物などを考えた時にも、川内村だけでは完結しないじゃないですか。そうしますと、双葉郡として全体をどう考えるか。こういう問題は、避けては通れない時期にそろそろ差し掛かってくると思うんですよね。
 ちょっと聞きにくいことなんですけれど、他自治体との合併という選択肢をどう考えておられますでしょうか。というのも、川内村は住民票を置いている人と住んでいる人が一致しているのですが、同じ双葉郡内では実際に暮らしている人数と住民票を置いている人数の間にかなりの差が出ている町もあるわけです。
 役所自体が他の自治体へ避難したような状況下では、そうした差異も当然認められるべきなのですが、一方で「住民税を払っている場所と、実際に行政サービスを受ける場所が違う」という状況をいつまでも是正しないわけにもいかない。町村合併、もしくはより密接な連携をどう考えますか。

画像6


遠藤  あの日からもう10 年になりますね。たぶん、今置かれている状況は、それぞれの自治体で違います。川内のように8割帰還している村もあれば、これから解除というところもある。置かれている状況にかなり違いが生じているために、双葉郡全体で物事を判断していく、考えていく、行動していく時に、やはりなかなか足並みがそろわない状況も起きています。
 これから第二期復興・創生期間ですけれども、どこかのタイミングで検証して、こういう状況になった場合に、さあこれから皆さん、双葉郡としてどうされるんですかっていうことは聞かれる時期が来るんじゃないかと思いますね。

細野  それは合併することも含めてですか。

遠藤
 そうだと思います。あるいは広域連合、連携のもっと密度の濃いものを、というような提案もひょっとしたらあるかもしれませんよね。

開沼  双葉郡内町村の若手職員に話を聞けば、全部でまとまって一つになるのがベストかは別にして、いずれ合併等の議論は必要になる時期も来るだろうという話になります。現状を言えば、例えば、あそこの自治体にこういう施設を作った、じゃあうちも欲しいよね、みたいな話がずっと続いてきてしまった部分というのはある。つまり、小さい似たような施設が近い自治体に同時に存在していたりする。でも、それらを全部一カ所にまとめて大きいのを作ったほうが合理的だし、結局は地域の魅力になるんじゃないか。そういう議論は、暗黙の了解としてあるわけですね。 ただ、少なくともここまでの10年は復興という目の前の大きな課題があり、それに向き合うことに全力を尽くすしかなかった。
 今後、いわゆる復興バブルと言われるようなものが終わって、それぞれの自治体の格差が明らかになり、財政的にも厳しくなる部分も見えてくるかもしれない。選択と集中をしていくという時になって、この話が具体化される時期が来るかもしれない。そうであれば、いつやるかは別にして、今のうちからいろんなビジョンを描いておく必要はある。これはみんな同意できるところだろうとは思います。

処理水保管が復興の足かせになる

細野  いよいよ10年じゃないですか。これからさらに次の10年を考え、見据えたアクションを起こすべき時期ということですね。

開沼  廃炉に「エンドステイト」という言葉があります。「廃炉とは最終的にどういう状態にすることなのか」という話です。まあ、ゴールのイメージですね。この避難指示を経験した地域全体のエンドステイト、最終状態をどうすべきなのかということも考え始めるべき時期です。いずれ、「昔は『復興』って言葉もよく使われたよね」と言われる時代が必ず来るので。その時にどうあってほしいのかっていうビジョンが重要です。

細野  もう一つ、遠藤村長に聞きにくいんですけれど、あまり先に延ばせないのが処理水の問題なんです。お隣の大熊町と双葉町に溜まっていて、答えを最終的に出せていないわけですよね。大熊町と双葉町の両町長さんは、このまま陸上で保管し続けることについてはもはや限界だと。結論を出してくれとおっしゃっている。ここを双葉町と大熊町だけの問題にするんじゃなくて、双葉郡全体でやはり考えていくべき時期にも来ているんじゃないかと思うんです。

写真1

 外部の人間としては非常に申し訳ないんだけれども、やはり当初から関わってきた責任者の一人として、そろそろ政府が海洋放出を判断する時期が来ていると考えているんです。村長がおっしゃることのできる範囲で考えをお聞かせいただければと思うんですけれども。

遠藤  そうですね。時間的な問題もありますし、そんなに遅くないタイミングで政府の責任で結論を出さなくちゃいけないって思っています。現状のままでの陸上保管となると、今、タンクが置かれている双葉町、大熊町の復興の足かせになっていくのではという心配はあります。同じ双葉郡内で原発事故からの避難と帰還、そして復興に取り組んできた首長の立場として、両町長の気持ちは理解できます。

細野  保管し続けることが解にならない苦しさですよね。それが最終的な解決策になるならいいんだけれども、実は保管を続けること自体も風評の発生源になること、加えて帰還や生活、経済活動も妨げて復興の足かせになることは、ほとんど注目されませんよね。しかも、廃炉作業そのものを困難にする要因でもある。これまでに処理水保管に関連した殉職者まで出ている。そういう状況に対し、どう判断するかですよね。もちろん、政府が決断をして、結果についても全て責任を負うべきです。
 厳しい話をして大変申し訳ありません。開沼さん、この地域の未来についてこれだけはということがあればコメントをいただきたいんですが。

開沼  遠藤村長が他の双葉郡首長と一番違うところは、3.11の時から在任を続けている首長さんが他にもう残っていないことです。世代交代がある中で記憶の継承は難しい。例えば、中央省庁の方って2、3年でバンバン異動していく。それだと、積み重ねられてきた現場の文脈についていくのは難しい。今、かつて福島担当だった人が別部署に移動したけどもう一回福島に戻ってくるとか、一回のみならず二回戻ってきたとか、そういうことももう10年経つと発生している。ただ、それは例外的だし、限界はあります。
 長期的なスパンでの人材育成と言ってよいかもしれないが、教訓をいかに抽出し継承していくのかというのが、これまでは目の前のことに必死でできてこなかったんじゃないか。周りは、顔ぶれが変わっていく風景をいかに見ていらっしゃるでしょうか。大熊町の渡辺利綱前町長が辞められましたが、その前に、一度は辞めるつもりだったけど、復興を担う重責を引き継いでくれる人がいないから、もう一期続けたという経緯がありました。
 飯舘は若い方が村長を引き継がれましたが、これはうまくいった事例です。引き継ぎ手が見つからないという構図は今後も出てくるでしょう。遠藤村長はご年齢的にも若い時から村長をやっていらっしゃるけれど、ずっとやることも大変だ。でもまだ復興は完遂しない、やり続けなくちゃだめだっていう問題もある。ここはこれからより厳しくなるなと。

遠藤  渡辺大熊町長も辞められました。最近は飯舘村の菅野さんもお辞めになった。浪江町長の馬場(有)さんと富岡の遠藤(勝也)町長は、すでにお亡くなりになってしまいましたね。あの時代を共に戦ってきた戦友が去っていくというか、何となく独りぼっちになっちゃったかなという感はありますね。

細野  今日は開沼さんと一緒に、東日本大震災・原子力災害伝承館にも行ってきました。

東日本伝承館

高校生も見学に来ていたのですが、考えてみたら今の高校生って、あの災害時には小学校低学年だったんですよね。そう考えると、きちんと伝承していくことは本当に重要だと思いました。そのためにも、やっぱり人ですよね。今後も含め、いろんな政策とか方向性の決断を出す時に、当時やこれまでの背景を知っている人が残っているかどうかで全然違う。
 そういう意味で責任を被せるようで申し訳ないのだけれど、遠藤村長が当時一番お若くてアグレッシブでした。当然の結果とも言えるかもしれないけれど、最後にバトンをまだ持ち続けているわけですよね。大変でしょうけど、ぜひ頑張っていただきたいと思います。

遠藤 そうですね。原発事故が起きたのはもう現実ですし、その時に村長の立場にあった自分としては、負の遺産はできるだけ少なくして子供たちの世代につないでいきたいなっていうのがあります。そこが今を生きる我々の、大人のミッションじゃないかなというふうには思っていますけどね。

細野 ありがとうございます。今日は、川内村の蕎麦酒房天山で囲炉裏を囲みながら対談をさせていただきました。私は地元静岡の皆さんと毎年福島に来ていたんですけれど、2020年は新型コロナウイルスの影響もあってうかがえなかったので、この対談でお会いできてよかったです。当時を知る政治家として、今後も責任をもって福島の未来を見続けていきたいと思います。今日はどうもありがとうございました。

3人



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?