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須賀敦子について


 『須賀敦子エッセンス2』を読みました。


 須賀さんのエッセイから代表作を収録した、まさしくエッセンスと呼べるものになっている。その第2巻。

 

 特に私が好きだったのが、「父の鴎外」に書かれている、須賀さんのお父様と「鴎外」を巡るやりとり。須賀さんのお父様はかつての文学青年で、特に、森鴎外と泉鏡花に傾倒していたという。そこで、若き日の須賀さんが、外国文学の翻訳に取り組んでいる時に、お父様からかけられた言葉が、


 「鴎外は史伝を読まなかったら、なんにもならない。外国語を勉強しているのはわかるが、それならなおさらのことだ。『渋江抽斎』ぐらいは読んどけ」


 だそうである。


 これとまったく同じような趣旨のことを、学生時代、日本近代史ゼミで先生が言われたことがあるので、思わずにんまりとしてしまった。


 鴎外は史伝、という評価については、もともと石川淳や永井荷風が言い出したことのようで、この評価はあながち間違ってはいないと思うのだが、なにせ、敷居が高い(と、一般に見られている。)。この敷居の高さこそが鴎外の史伝ものの評価を高めているとも言えるのだが、その文壇的なバイアスに拘泥していないところが、須賀さんらしいところでもある(なにしろ、偉い文学者が言い出したことはみな定説なのだという人もいるくらいである。小谷野敦氏にいわせれば、加藤周一の言ったことが定説、というわけか。)。
 かえって、鴎外の歴史ものについても、ギリシア悲劇に連なる西洋的な骨格を見出し、東洋的な価値観はあくまでその骨格に肉付けされたものとみる須賀さんの見立てには、新鮮さを感じる。


 「人も物も、<生身>であることをやめ、記憶の領域にその実在を移したときに、はじめてひとつの完結性を獲得するのではないかという考えが、小さな実生のように芽ばえた。かつては劣化の危険にさらされていた物体が、別な生命への移行をなしとげてあたらしい<物体>に変身したもの、それが廃墟かもしれない。」(「黒い廃墟」より)

 

 この一説もすごく好きだ。廃墟とは何か。その問いに、ここまで率直に、端的に答えた例はかつてないのではないか。魂のこもった一文である。

 

 森鴎外と泉鏡花といえば、私も全集をそろえている。須賀さんが生涯の仕事の一部を捧げたユルスナールも、私の愛読書である。ユルスナールに傾倒していく魂と、鴎外と鏡花の文学とは、どこかに通底するものがあるのだろうか。ピラネージの描く廃墟についての文章にも、共感できるものがある。私もどこかで、須賀さんの影響を受けているのだろうか。あるいは、まったく別の経路で似たような趣味に至ることもあるのか。

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