マガジンのカバー画像

夏の匂いの人

9
運営しているクリエイター

記事一覧

夏の匂いの人9

夏の匂いの人9

 こういう品評会に訪れる者の平均年齢は高く、圧倒的に女性が多い。フォーマルに見えるよう、白いシャツと黒のスラックスというシンプルな服装で訪れた國谷は、けれど若い男という会場では異質な存在であるということを周囲の目線で感じ、気後れしながら足を踏み入れた。
 最近は遠方で仕事をしていた時雨の華が、近場の展覧会に出展されると聞いた。そこで会えるとは思っていなかったけれど、あわよくばという気持ちがあったの

もっとみる
夏の匂いの人8

夏の匂いの人8

 あれから、時雨は逃げるように遠方のオファーを受け、屋敷から離れるようになった。これまで敬遠していた雑誌などの取材も受けるようになり、各地での教室や展覧会など精力的に活動した。花の注文はそれでストップしていたから國谷と会わざるを得ない状況になることはなかったし、それでも國谷は屋敷に来るかもしれないとなんとなく思ったから、時雨が屋敷を離れた。
 全く帰らなかったというわけではなかったけれど、ゆっくり

もっとみる
夏の匂いの人7

夏の匂いの人7

 品評会の打ち合わせのために街を訪れた時雨は、予定を終えて國谷が働く花屋に向かっていた。いつもは配達をお願いするため、店に行くことはそう多くはない。
 前も同じことしたな、と回顧しながら、時雨は店には入らずに遠くから店内を覗き見た。
 花屋に似合わない長身が見えた。店には父親と母親と小学生くらいの少女がいて、國谷は膝に手をついて何かを聞いていた。
 少女が笑って、いくつか花を指さし、國谷が抜き取っ

もっとみる
夏の匂いの人6

夏の匂いの人6

 夕暮れ時の風が、さらりと時雨の頬を撫でた。秋が近づき始めて、微かに冬の匂いがする。人通りの少ないこの屋敷の周りには虫の鳴く声だけが響いていて、そこに混じるバイクの音に、時雨は静かに顔を上げた。
 正座していた足を崩して立ち上がると、じわりと脚に血流が戻る感覚がする。軽く伸びをして、切った花と鋏を片付ける。
 じゃりじゃりと、庭の砂利を踏む足音がした。彼はいつだって、玄関ではなく縁側からやってくる

もっとみる
夏の匂いの人5

夏の匂いの人5

「すみませーん」

 花の配達がある時間には、自然と麦茶を準備するようになっていた。けれど聞こえてきた声は、いつもと違うもので時雨は戸惑った。
 普段なら、國谷は縁側に来てくれる。声は玄関からで、縁側の方にいた時雨が慌てて玄関の戸を開けると、國谷よりも若い青年が花を抱えていた。

「配達ですー」

 伸びた語尾が、若さを感じた。時雨が抱えるには重すぎるので、縁側に回ってもらい、準備していた麦茶をつ

もっとみる
夏の匂いの人4

夏の匂いの人4

 初めて國谷にあったときの第一印象は、大型犬だった。
 まだ季節は真冬だった。縁側からしんしんと流れ込む冷気は、雨戸を開けた瞬間に一気に部屋に流れ込んできた。
 息が白い。一面に白く眩しい雪が積もっていて、夜の間に雪が降ったのだと知る。道理で冷える。
 縁側に置きっぱなしにしている下駄を引っかけて、少しだけ庭に出てみた。葉に積もった雪を指先で拭うと、ぽさりと落ちた。
 庭から繋がる玄関の方に、車が

もっとみる
夏の匂いの人3

夏の匂いの人3

 しとしと、と冷たい雨が降っていた。音のない霧雨は、暑い夏の空気を少しだけ和らげさせる。
 傘を差すまでもないだろう、國谷はそう考えて、道路の脇にバンを停めた。車の最後部から水の入ったバケツに刺さった切り花を、バケツごとそっと持ち上げる。
 配達先は古い日本家屋。裏手は山になっていて、この辺りは民家も少なく、昼間の今でもしんとしている。きぃ、と入口の錆びた門の音が鳴り、抵抗なく招き入れられる。
 

もっとみる
夏の匂いの人2

夏の匂いの人2

 今日はやけに暑いな、と時雨は思わずノズルを強く握った。勢いを増した水が、庭の緑にきらきらと降り注いだ。
 一通りの庭の水やりを終え、家の中に戻る。たすき掛けにしていた浴衣を整えて、縁側に座って一息ついた。

「…………?」

 暑いというより、熱いという感覚だった。水でひんやりと濡れてしまった手を額に充てると気持ちが良い。身体を動かすことすら怠くなってしまい、そのままそこに寝そべった。家の中でも

もっとみる
夏の匂いの人1

夏の匂いの人1

「時雨さん、起きてください」

 その声は低く微かに掠れさせ、じっとりとした夏の空気を震えさせる。柔らかく優しいそれに、沢城時雨は少しだけ寝たふりをして甘受し、目を覚ました。
 みーんみーん、と蝉が鳴いている。築百年に近い古民家の縁側は板張りで、その冷たさが身体を冷やしてくれていた。枕にしていた二つ折りの座布団を整えながら声がする庭の方を見ると、眩しいくらいの青い空を背負った國谷の姿があった。頭に

もっとみる