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「断罪パラドックス」   第8話

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 私と一条くんは同じクラスだったけど、それまで話したこともなかった。一条くんは優等生というよりは人当たりのいい、イケメンで女子からかなり人気があった。でも私は、誰とでもそつなく会話ができるのは、ちょっと軽薄そうだなと思っていたし、どこか油断のならないかんじのする人だとも思っていた。一条くんにはどこか羊の皮を被ったオオカミのような印象を受けていた。

 その時の私は自分のことで頭がいっぱいだった。夏休みがもうすぐはじまる一学期の終わり。私は一条くんがやってしまったことをしようとしていた。そう。学校の屋上から、まさに飛び降りようとしていたのだ。

 学校の屋上の鍵が時々開いているのは知っていた。どうやって死のうか考えた時、一番手っ取り早いのが飛び降りることだった。だったら屋上が開いている日に飛び降りようと思っていた。どうして、屋上が開いている日があるのかは深く考えていなかった。

 私は屋上のフェンスを乗り越えて、下に何があるのか確認した。あまり人が通らない場所に狙いを定めようとうろうろしていた瞬間だった。

「ちょっ。二村さん、何やってんの?」

 急に声をかけられて、驚いた私は足下がふらついて、自分の望まないタイミングで落ちることになるところだった。

「何って見たら分かるでしょ?」

 私らしくもない口調の強さに自分で驚いてしまった。一条くんは驚かなかった。薄く微笑んでいた。

「へえ。二村さん死にたいんだ? なんで? 二村さんみたいなかわいい子がこの世から消えちゃうのはもったいないと思うんだけどな」

「一条くんには関係ないでしょ! あっちへ行って!」

「関係ないは酷いなあ。十分関係あるよ。二村さんがそこから飛び降りたら、最初に脳みそとかが飛び散ったぐちゃぐちゃになった二村さんの死体を見るのは間違いなく僕だよ? きっとトラウマになって向こう一週間くらいは焼き肉食べられたくなると思うな」

 人が死のうとしているのに、すごくのんきなことを言う一条くんが信じられなかった。

「一週間、焼き肉が食べられないくらいどうってことないでしょ?」

「うん。二村さんの悩みもそれくらいのもんかもしれないよ?」

「そんなことあるわけないでしょ?」

 私は怒り狂いながら泣いていた。一条くんはそれにもまったく動じていなかった。

「だから、話してみたら?」

 本当にむかついて私は思わず本当のことを口走っていた。

「私妊娠してるの」

「えっ! 妊娠って、二村さんって彼氏いたっけ?」

「彼氏なんていないよ」

 あの日から、何度かショウさんに呼びつけられるようになった。「行きたくない」と言うと迎えに行ってあげる、学校の前で待ってると言われた。裸の写真を撮られたり、動画を撮られたりしたこともあったけど、それをどうにかするとか、はっきりと具体的に脅されたことは一度もない。でも、学校の前で待ち伏せされるのは私にとっては脅迫されたのも同然のことだった。ショウさんのことを友だちやクラスメイトに絶対知られたくなかった。ショウさんに私とのことを他の誰かにほんの少しでも臭わされたくなかった。脅迫されたわけではないけど、私はショウさんの言いなりだった。あのアパートで何度も……。

 もう思い出したくない。

 あれほど、呼び出していたのに私が生理が来なくなったと言ったら、毎日のように来ていたショウさん連絡は途絶えて、ブロックされた。自分からあのアパートに行く気にはとてもなれなかった。それに、ショウさんと連絡がとれたとしても、この状況がよくなるとはとても思えなかった。 

 私が黙って唇を噛み締めていると、一条くんはこう言った。

「まあ、ワケありってこと? でもそれならどうして? 失恋してあてつけに死にたい。とかじゃないんだよね? 死ぬことないじゃん。中絶すればいいだけでしょ?」

「そんなに簡単じゃないよ。こんなことが親にバレたら、私、生きていけない。お母さんになんて言われるか分からない。今だって嫌らしいとか汚らわしいとか言われてるのに、高校生で妊娠したなんて、殺されると思う」

 マスターベーションをしている私の布団をめくって、私の枕で私を殴り続けるお母さんの鬼の形相が私の頭の中で危険信号のように点滅する。生理がこなくなって、ストレスのせいだと思い込もうとしたけれど、体調の変化は顕著に出ていた。つきまとうような眠気と倦怠感と吐き気。とうとう、昨日ドラッグストアで妊娠検査薬を買った。家で検査して、万が一お母さんに妊娠検査薬のパッケージが見つかったら、そこですべてが終了するから、学校の近くの公園の片隅にある、壁に落書きがいっぱいしてあるトイレの個室で検査薬を使った。何度も何度も説明書を読み返したけど、青いラインが二本くっきりと浮かんでいるのは妊娠で間違いがないらしい。私は九十九パーセントの確率で妊娠している。

「なんか、よくわかんないけど、二村さんの親ってかなり変なんだね?」

 自分の親のことを変って言われたら怒らなければいけないのかもしれない。でも、この時、私は両親のことを変だと言った一条くんは間違っていないような気がした。

「変だと思う? もう私にはよく分からないんだ」

 一条くんは頷いた。

「もう一度確認するけど、親にバレせずに中絶できたら、二村さんは死ななくてもいいかんじなんだよね」

「すごく簡単なことみたいに言わないで」

 一条くんの声色が少し鋭くなった。

「二村さん、僕はね今、確認してるんだ。親にバレせずに中絶できたら、二村さんはそこから飛びおりなくてもすむんだよね」

 今度は私が頷いた。

「全部なかったことにしたい。そんなこと無理だと思うけど」

「全部なかったことにできるのは自分次第だと思うよ。二村さん、僕ならとりあえず二村さんがそこから飛び降りなくてもいいようにしてあげられるよ」

「嘘でしょう?」

「こんな大事なことで嘘なんかつかないよ。でも、もちろんタダでって、わけにはいかないけど」

「いくら必要なの? 私お金なんか……」

「お金なんかいらないよ。そんなつまんないもの欲しくない。僕が今二村さんを助けてあげるかわりに、二村さんの命が続く限り僕の言うことを聞いて決して裏切らないと約束して欲しいんだ」

 この時の私は藁にもすがりたい気持ちだった。だから、一条くんの印象が羊の皮をかぶったオオカミだったのは間違いではなかったとだけ思ってその藁にすがった。


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