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「天の国」と「神の義」を第一に求める

家に帰ってきたら、石垣のジャスミンが咲いていた。

それで、一年前のことを思い出す。

88星座めぐり を始めたのは去年の4月……で、太陽をひとめぐりした地球はいま、1年前とは異なる空間に存在する。なぜなら、太陽銀河も、より大きな中心の周囲をめぐっている から。

そんな多層らせんの時間と空間を抜け、わたしは  に向かう道を辿る。

ハリーランバート(ハラランボス)氏の著書を読みつつ、最優先事項をはっきりさせておかねば……と思った。

絶対無限の存在 が約束してくれた言葉があります。「天の国神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食住)は、すべて添えて与えられるであろう」(Noel註:マタイ福音書6章33節)。これがキリスト約束です。どういう意味なのでしょうか?

私たちは普通、自分の家族や仕事を人生の最優先にして生きています。そして自分の成長は、3番目、5番目……あるいは最後という人もいるかもしれません。普通の人は、「天の国求める」ことは優先事項に入っていません。まずは家族、友人、仕事、銀行口座などが優先していますが、何を優先するかということは、成長のためにとても大切なポイントです。銀行にお金を貯めることに優先順位があれば、絶対無限の存在は「じゃあ、勝手にやってください」と言います。絶対無限の存在信頼して頼まなければ、どうして私たちが安心を得るために手伝ってくれるでしょうか?

天の父は、私たちが頼まなくても、わたしたちの世話をしてくれています。いちばん大切なことは、絶対無限の存在神聖なる計画信頼することです。しかし私たちは、自分のことは自分がいちばんわかっていると思っているので、自分の人生を任すことができません。一生懸命自分で解決しようとするのですが、なかなか解決できません。ところが、絶対無限の存在信用すれば、彼もまた私たちを信用して、私たちに必要なもの与えてくれます。

私たちは生きていくために、食物や洋服が必要で、部屋代も払わなくてはいけません。絶対無限の存在なので、すべてわかっています。キリストは、私たちの「髪の毛一本一本も全部数えられている」(Noel註:マタイ福音書10章30節)と言っています。私たちの体を創ったのだから、私たちのことを知らないはずがありません。

私たちに意識をくれた人が、私たちのことを意識していないなんてことはありえません。何でも知っていますが、見ているだけで手は出しません。なぜなら、絶対無限の存在は私たちのことをとても愛してくれているので、私たちの自由意志尊重して絶対に邪魔をしないのです。たとえ私たちが戦争をして、互いに殺し合っても間に入ってやめさせたりはしません。私たちの自由意志尊重しているからです。「神様は冷たい」と言う人がいますが、そうではなく、それが愛情なのです。

私たちは、判断能力がないので戦争などをしています。本当は戦争などしないで、マインド 正しく使えるようにならないといけないのですが、つらい思いをして痛みながら、だんだん理性が働くようになるのです。この世のすべてのことは私たちの責任で、神の責任は一切ありません。自由意志をどのように使うかは私たち人間責任で、その結果として今のこういう状態があるのです。

カルマというのは誰がつくるのでしょうか? 自分自身です。「石を上に投げて自分の頭に落ちたら、誰のせいでしょうか?」。これが カルマ法則 です。私たちは、悪いことを人のせいにしますが、それは間違いです。自分の行動に責任を持って、自分の力で成長しなくてはいけません。

この地球において、自分の霊的な成長よりも大切なものは何もありません。「自分の中天国探す」。それがナンバーワンプライオリティ(優先順位)です。家族や仕事のことも大事ですが、絶対無限の存在任せればいいのです。そうすれば、すべてちゃんとしてくれて、生活に必要なお金もくれます。しかし、私たちは信用していないので、なかなか任せられません。自分はより何でもわかっていると思っていますが、それは大きな間違いです。私たちは本当に小さなもので、何もわかっていません。ソクラテスの言った「私の知っていることは唯一つ。何も知らないということです」という謙虚さが大事です。

ハリー・ランバート著「私は何のために生きているのか?」295‐297ページ
太字化はNoelが実施

ハラランボス氏の著書には、スピ系にありがちな刺激的でセンセーショナルな話は出てこない。平易な言葉でわかりやすく、分離の次元 でわたし達が見出すことができる相対的真理を淡々と説いている。

では、改めて宣言!

わたし Noel は、天の国神の義(義=“δικαιοσύνη”=正しさ)を第一に求めます絶対無限の存在を信頼し、すべてを絶対無限の存在に任せ、明日のことは心配しません。日々の 内省 によってエゴイズムから離れ、じぶんの中にある天国をみつけ、それを喜び、表現します。