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ペルセウス座の探索2(「存在」の目的は「自己意識」の獲得、「地球3次元人生の目的」その3)

探索対象:ペルセウス座

(夢の内容)

夢1、「右側のひと」と話している。

夢2、学校のような大きな「公共施設」に、3歳くらいの「息子」と一緒に「プール」の見学にきている。ここにいるひとたちは「服を着たひと」が8割、「裸のひと」が2割……で、わたしと息子は「裸」で何も身に着けていない。そのことをさいしょは何とも思わなかったが、服を着たひとたちにジロジロみられていると、「裸は恥ずかしい」という気分になってくる。

「プール」にゆくと、水が「泥」のようなことに驚く。そこで、きゅうに「トイレ」にゆきたくなったので、「息子」をプールの傍で待たせてトイレにゆく。女性用トイレには5人ほど並んでいて、順番に「個室」に入ってゆく。わたしの番が来て入ると、みたことのない形の便器が目の前にある。どうやって使えばいいのかわからなくて立ったまま用を足していると、何となくトイレの仕組みがわかってくる。これは「分娩台」で、仰向けに座って足をひらいて使うらしい……と、わかったときはすでに用済み。

夢3、夢2の続き。プールに戻ると「息子」がいなくなっている。プールに飛び込むひとたちの勢いに押されて「落ちた」らしい。わたしも飛び込んで探そうと思ったが、プールに入るひとたちはみんな「水着」を着ている。「水着が必要」と考えていると、「昔使っていた服」を「ロッカー」に預けていたことを思い出す。

プールからロッカーのある「本棟」のほうにゆく。そこは広い「大学」のようなところ……で、「スーツ」を着た「Y教授」(大学時代の指導教官)をみかけ、何となく教授の後をついていってしまう。Y教授はとある教室に入り、教壇に立って「英語」で授業を始める。「身なりの良い生徒たち」の中にいると、「裸のわたし」は明らかに異分子、、、なので、そそくさと部屋を出る。

夢4、夢3の続き。「ロッカールーム」でみつけた「水着」は「花柄ビキニ」、、、「年齢からしてコレは無理」と思うが、つけてみると意外とフィットする。いつの間にか「若返った」らしく、そのことに勇気づけられながらプールに向かう。プールでは、つぎつぎに「水着」のひとたちが「泥水」に飛び込んでいる。「はやく息子を探さなくては…」と思いながら、わたしもプールに飛び込む。

夢1の「右側のひと」は、5次元の自己の男性的側面。

彼と「D」(地球3~4次元の自己の男性的側面、シャドウ)は 区別して考えなくてはいけない。「右側のひと」はメドゥーサを手中に収めたペルセウスであり、彼を「地球3次元」で具体的にイメージする場合はダスカロスになる。ただし、一時的人格 としてのダスカロスをそのまま投影してはいない。「右側のひと」は「D」と比べると姿かたちがひじょうに曖昧……であるが、より根源的なところで接触している充足感がある。

昨夜は寝る前に「メッセンジャー」を読んでいて、それで「右側のひと」が出てきたのだと思う。タイムリーなので、読んでいた箇所を引用しておく。

「ダスカレ、キリストロゴス と 聖霊 の違いは何でしょうか」

「いい質問をしてくれた。キリストロゴスと聖霊は、絶対 が マインド を通して自分を表現する二つの方法だ。聖霊は絶対のパワーを代表する非人格的な超意識であり、これが世界の創造を可能とする。これが絶対の動的な部分だ。キリストロゴスは絶対の部分で、自己意識の存在を可能とする。私たちは、永遠の存在としてロゴス的であり、かつ聖霊的でもある。動物は聖霊性だけを持つ。分かるかな。絶対を頭だとすれば、聖霊が左手、ロゴスが右手だと考えてみよう。これで、なぜ教会が〈父と子と聖霊の御名において〉と祈るか分かったかな」

キリストロゴスという時、イエス・キリストのことを指しているのですか」

「いや、イエス・キリスト自身は次のように言っている。〈山や岡が存在する前に私は存在した〉。キリスト・ロゴスは、イエスが現われる前から絶対なる存在に内在していた。ナザレのイエスをキリストと呼ぶのは、彼がこの全宇宙的なロゴスの最も完璧で完全な姿、表現だったからだ。地球に降りて来る人間すべてを覚醒させる光なのだ。それがどういうことか説明しよう。キリストが私たちの惑星に反射する光の光源である太陽だったとすると、黒い意志はほとんど光を反射しないだろう。他の色の石はもっと光を反射し、白い大理石はさらに反射する。どのくらいその意志が光を反射するかは、その質と色によるというわけだ」

「私たちが、その意志なのですね」

「その通り。私たちの中で反射するロゴスの光がどのくらいかは、自己意識を持った存在としてどの程度進化しているか、そしてどの程度サイコ・ノエティック体が発達しているかにもよる。しかしどの石も、今どれほど暗い色をしていても、太陽の強い影響を受けて縞大理石のように白くなる時が来る。分かるかな。では、存在することと、存在性の意味を使い分けることにしよう」

「この二つは、どう違うのですか」

「存在するものは、それが何であっても、それは進化を超え、表現を超えて在るのだ。それは永遠の現在にあり、絶対の中にあるのだ」

「ますます混乱してしまいました」と私はいらいらして言った。

「見なさい。私たちは存在する前に聖なるモナドとして、魂として在るのだ。人間の イデア を通り、物事が別々になった世界に入ると、存在を得るのだ。存在するものは始めと終わりを持ち、そして、次のサイクルでまた始めと終わりを持つようになっている。永遠の存在として、私たちはただ在るがままにある。いつも在ったのだ。存在のサイクルを通して、自己意識を獲得するように見える。以前に説明した放蕩息子の話の意味もここにある。キリストが〈私がであり、真理であり生命である〉と言った時、どのようなことを意味したと思うかな。〈私は時間である。私は時間・空間の中の進化する現象の裏にある、絶対の知恵である〉。どのくらいの人がキリストの言葉を理解できるだろうか。キリスト教には確かな中味がある。でも、今まで私たちは大海原の海面にいたに過ぎない。これからその深淵を探究して行く必要がある」

ダスカロスは両手で両膝を叩き、そして続けた。

「人間のマインドは、絶対の二つの性格と三つの特徴を捉えることができる。前にも述べたように、二つの性格はロゴス性と聖霊性だ。自然を勉強すると、三位一体といった三つの特徴もつかむことができる。それは全知全能、そして絶対善だ。広大な宇宙の中にも、物質の小さな電子の中にもこの特徴を見ることができる。小宇宙での真理は、大宇宙でもそうなのだ。すべては神の自給自足の状態の中に表現されず、実現されずにある。そこには、存在が表現を始めるための聖なる表現もある」

キリアコス・C・マルキデス著「メッセンジャー」189‐191頁

夢2は、「地球3次元」に生まれてくる前のエピソード。

これは、前に「地球3次元人生の目的」について書いたもの とは異なっている。むろん、みたままストレートに解釈できる夢は少なく、今朝の夢は「わたし個人の親子関係」をそのまま反映したものではないが、夢の象徴性は「地球3次元における境遇や体験」……つまり カルマ(原因と結果の法則)の原因となった事象への気づきをもたらしてくれる。

「学校のような大きな公共施設」は、フォーカスレベル17(高次4次元、モンロー研式にいうとF27)にある「地球3次元」への転生をコーディネイトするセンター。「裸のひと」は衣服の下にある身体(タロットの絵柄でいうと「肌色」の部分)……すなわち「魂-自己」の乗り物であるサイキカル体ノエティカル体 で、「服を着たひと」は「地球3次元」に順応しやすい資質と肉体を備えた「魂-自己」といえる。

「裸」や「ビキニ」のように、「服がほとんどない状態」で転生した場合、適応不良を起こしやすい はず。ビキニで「泥水プール」(地球3次元)に入ってしまったのは準備不足であった(^^;……が、「泥水から抜ける選択」が制限されることはない。

というわけで、夢に出たきた「3歳くらいの息子」は(「地球3~4次元の自己」の男性的側面、シャドウ)だ。はぐれて別々に誕生してしまった彼をみつけ、一緒に戻るのがミッションのひとつらしいが、今世では難しいかもしれない。Dが聖なるものとの 一体化 を意図的に避けるのは何故なのか? そこんとこ知りたかったりする、マジで、、、

では、ペルセウス座の星図を載せて、パパっと終了。