虹色のぶどうをココロに
小学2年生のとき、他クラスの先生を招いて、それぞれに家から持ち寄ったブドウを、クレヨンで写生する公開授業がありました。
当時のわたしは、母に用意してもらったデラウェアを机にのせ、同級生のお友達が紫色のブドウを一生懸命に描いている中、美しく瑞々しい皮の中身を表現しようと、白や肌色をベースに虹色に輝く房いっぱいのブドウを描いていました。
優しかった担任の先生に褒められて、意気揚々と指で滲ませながら陰影を作る作業に夢中になっていると、隣のクラスの先生が近づいてきて、耳元で囁きます。
「あなたのブドウはこんな色ではないでしょう?きちんと見て描きなさい」
急に恥ずかしくなったわたしは、急いで紫色に塗りつぶしてしまい、あとになって担任の先生に理由を聞かれても、何も答えられませんでした。
このときのことを、高校時代のクラス文集に載せたことがあります。確か「紫色の皮の下には、わたしが描きたかったブドウが今でもある」というような締め括りだったように記憶しています。
あれからさらに数十年経って・・・隣のクラスの先生が仰ったことも、一理あるなぁと思えるのです(笑)
世の中を生き抜くために、鎧が必要なときもあって、あるいはブドウの皮が、わたしたちの大切な何かを守ってくれるのかもしれません。
そういうわたしは、教訓を得ることなく、実(み)をあらわにしたまま生きてきてしまいましたが・・・
本当は、わたしたちの本質は、皮でも実でもなく、食したときに味わう、それぞれの感覚なのではないかと思えます。
口の中で弾ける、酸味と甘味の絶妙なバランス、ジューシーな食感。
この感覚だけは、わたしだけのものであり、だれにも侵すことのできない領域です。
そう考えると、だれかに傷つけられることも、だれかを傷つけることも、本質的には不可能なのでしょうね。
自分をいじめることが出来るのは、自分だけ。
自分を罰することが出来るのも、自分だけ。
自分を愛すると決めるのも、自分だけ。
自分を愛して初めて、相手を心から愛せること。
愛にはジャッジがなく、制限がないこと。
いつでも愛の中にいて、愛に溢れていたいと思うと、ときに予想外のことが起こるものです。
それでも、自由に、こころのままに。
かもみーるさんの記事が嬉しくて、いつでも読めるように貼り付けておきます。むふ。
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