あいだ通信 no.1:妖怪(ゆがみの間)
第⼀弾となる今回のテーマは「妖怪」。昼と夜、ムラとヤマなどの「あいだ」から出没し、⼈間を脅かす「妖怪」という存在に折り畳まれた「あいだ」の思想を巡ります。
江⼾時代ごろまではリアルな存在として盛んに語られていた「妖怪」も、科学や技術が発展し、夜道も明るい近代ではその姿は置いてけぼりにされた。それでも、親は⼦に「早く寝ないと⻤が出る」と⾔い、テレビは「ゲゲゲのゲ」と唄う。「妖怪」という存在の真偽を表⽴って疑うことはせず、⼦どもの教育の中に何⾷わぬ顔で登場させたり、アニメの世界では⼈気絶頂のコンテンツにまでなっている。
そんな社会背景を踏まえると、どうやら⼈間は社会を正常にまわすために「妖怪」を必要としている気がしてくる。「妖怪」の表⾯的な特徴ではなく、その裏側にセットされたシステムやアルゴリズムからその機能を紐解いてみたい。
1. 妖怪とは
妖怪には、動物や植物、鉱物、道具など⾝近に存在するものたちをモチーフにしたものや、その組合せから創り出されたものなどがあり、
と言える。⺠俗学や⼈類学などの学問上ではさまざまな定義や分類があるものの、ここでは以下の定義にしておきたい。
原因が分からないことは気持ちが落ち着かない。だから誰かに伝えたり、現状時点での解釈をもって安⼼したい。そこで周囲の状況的に「〇〇の仕業だろう」といった仮説として、妖怪という⾒⽴てが⽣まれたと考えられる。
ただ、妖怪を扱う上で注意したい点がある。今わたしたちが妖怪のことを⽂化として語れているのは、科学を振りかざし、海⼭を開拓し、都市をつくり、⾒えない世界(暗闇)を減らしてきた結果かもしれないということ。
動植物の⽣態や⾃然現象のことが今よりも分からず、道に灯りも少なかった時代に⽣きた⼈の⽴場からいえば、妖怪は⽂化ではなく「問題」だったのである。夜道を歩くのは億劫で恐怖モードだったわけで、⽂化と呼べるほど安⼼モードではなかったのである。
ここで代表的な妖怪「河童(カッパ)」を考えてみる。⻩昏時に河岸でなにかが蠢(うごめ)いている。それを「河童(カッパ)」として仮の名を与え、ムラで共有し、恐る恐る調べていく。その過程で正体(⽣態)が明らかになり、「スッポン」と分類される。分類が⽣まれた時点で恐怖モード(妖怪モード)は弱まり、河童は⽂化となる。
ここで強調したいのは、スッポンよりも河童というイメージが先にあったということであり、また、河童としてイメージしている状況の⽅が「他者としてのスッポンの存在を想像または知覚する⼒」が強く働くということ。
妖怪というイメージは、恐怖や危険を感じる「問題」のある場所に⽣み出され、そこへの意識や想像⼒を急速に⾼めていったのである。
2. 妖怪の間合い
妖怪はどのような「あいだ」に発⽣してきたのか。これまで⼈間が⽣み出してきた数々の妖怪から巡ってみたい。
「明」と「暗」のあいだ(WHEN)
妖怪時間帯の設定。妖怪は昼から夜に移ろう⼣刻の時間帯によく発⽣するとされ、その時間帯は「おうまがどき(逢魔時)」と名付けられた。視界が明瞭な時間帯から曖昧になっていく時間帯へ。⽇中に活発に働く視覚機能が弱くなる時間帯に、他の感覚器官がはたらき、⾒出された。
「⾃然」と「社会」のあいだ(WHERE)
妖怪の住処の設定。明るいところやわかりやすい所に妖怪は出ない。ムラとヤマの境界や街と川がクロスするところ、イエとソトの間に出没した。⾃⾝の暮らしが⾃然にインクルードされていることを⾃覚しながら、内側に対して外側を意識し、その外側から妖怪は顔を出した。
「分かる」と「分からない」のあいだ(WHY)
上に記した⼆つの「あいだ」が外的な環境条件によるものであるのに対し、内的な⼼理状況によるものがある。それは⼈間の頭や感覚では理解できない状況である。
例えば、夜間に屋根裏から⾳がする。誰の仕業から分からないとき、それはヤネタタキ(筆者の造語)など怪しきものの存在が打ち⽴てられる。翌朝、庭掃除をしていると、屋根から数⽻の燕が⾶ぶ姿を⾒つける。なんだ燕だったのかとなる。
対象のことがよく分からない状態の時、それを恐れたり、正体を暴こうとしたり、存在を追い払ってやろうとして「妖怪」は置かれる。妖怪は「分からない」から「分かる」に向かうプロセスにおいて、⼈間に付き合ってくれる。
3. 妖怪メディア論
昼から夜に移ろう合間に妖怪を置くことで、昼も夜も地続きであり、同じ世界でありながら⾃分以外の別の存在にとっての世界(時間)が同時に拡がっている感覚を得る。
動植物の住処と⼈間の住処がせめぎあうところに妖怪を⾒⽴てることで、ヤマとムラ・マチの、⾃然と社会のあいだに程よい距離感を探る。
理解できない対象を切り捨てるのではなく、仮説としての妖怪と共⽣することで、相⼿の正体や⽣態や考えを分かろうとするプロセスが発⽣する。
このように考えると、妖怪はなにかとなにかの「あいだ」の距離感や付き合い⽅を探るための時間を与えてくれる。そして、⾃分以外の他者の⽴場や視点を(恐る恐るあるいは渋々でも)⽣活に迎え⼊れさせ、他者との「あいだ」に対話をつくる存在ともいえる。
周囲の環境のなかに「ともにある」存在を知覚するための“視点”と、それとの対話を活性化するための“場”をつくる。妖怪は実にメディア的な⽣き物ではないか。
4. 妖怪のあるとき・ないとき
さて、妖怪は果たして今どこにいるのだろう。
⽣態系や⾃然現象に関する知識は昔と⽐べてはるかに増えた。夜も昼と変わらず、明るい空間が増え、視覚で処理する世界が増えた。科学的な知識と技術を⼿にした現代社会は“怖いもの知らず”にでもなったか。じかに妖怪を⾒かける(⾒出す)機会はめっきり減った。
妖怪という呼び名もまだ存在せず、“あやしきもの”が「問題」だった当時の⼈からすれば、その問題(妖怪)を追い払うことに成功したのかもしれない。ただ、妖怪(迷信)を駆逐するように、科学を振りかざし、それまで⾃然に保たれてきた様々な「あいだ」の関係性を⾒えないものにした結果、環境問題や社会問題が多発している点は無視できない。
妖怪がいる(=相⼿の存在がよく分からない)時、そこには様々な⾓度から相⼿を知ろうとするプロセスが⽣じる。妖怪がいない(=相⼿のことを理解したと決め切った)時、相⼿をコントロールする意思が働きはじめる。
なにも妖怪を現代に復元すべし!と考えているわけではないが、周囲の環境をリソースとしてマネジメントする傾向にある現代社会には、かつて物事が分類される以前にあった周囲の環境とのフラットで密な対話をどのように再建できるか、を考える⼀呼吸が必要かもしれない。特に、自然や社会を取り巻く環境を簡略化し、スピードを速めてきた科学技術こそ、足元に潜む複雑でリアルな環境のすがたを投影する力を持っているのではないか。
周囲の環境を管理するためではなく、それと共⽣するための⽂脈に、妖怪は息を潜めている。社会システムにゆがみが⽣じたところから、今⽇も妖怪は顔を覗かせている。
Text by Keisuke Saeki(星ノ鳥通信舎)
Art Direction by Sakura Ito(星ノ鳥通信舎)