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どうせなら同棲~19~

長く一緒に生活していると、相手の好きだったところが、自分でも気づかないうちに嫌いに変質していたりする。例えば「ご飯を美味しそうに食べるところが好き」と結婚前には言われていたのに、健やかなる時も病める時もと誓ったはずなのに「ご飯だけは一人前以上食べるのね」なんて嫌味を吐かれて意気消沈しすることもある。私はそんな友人をビュッフェに連れて行き、おおいに慰めたことがある。

そういう点では結婚に踏み切る前に同棲期間を置くことは、世俗的な目は一先ずおいといて、決して悪いことではないように感じる。良いところはいい。そのまま惚れ続ければいい。悪いところ、直してほしいところはどうするか。とりあえず我慢してみる。それを踏まえて妥結案を提示するか、諦観を抱くかは本人次第。そして晴れてふたりでやっていける自信が芽生えたら結婚すればいい。だめなときはキッパリとお別れして星空をみあげればいい。星の数ほど女性はいるって言われているのに一等星しか見えない東京の夜空を見上げて身悶えるしかない。

私達夫婦もそうでした。途中お別れしていた時期もあります。その数ヶ月。先ずは荒れに荒れて、その後、自暴自棄に陥り、最終的に自分を見つめ直す良い機会となり、五体投地のプロポーズを経て何とか結婚させていただくことができました。事前に7年もお付き合いしていたので、いや、7年もお待たせしてしまったので、結婚後は新鮮みには欠けるけど慣れ親しんだ生活様式が待っていてそれは実に居心地のいいものでした。

ふと考えてみる。お付き合いを始めた頃の彼女と、子育てに奔走している妻。好きが嫌いに、嫌いが好きに変わったところはあるだろうか。ジブリのBGMをかけて真剣に考えてみたけど何もみつからない。ひとりの後輩が彼女になり、彼女が妻になり、そして母親になった。そしてただ好きが増えていくだけの15年間を送れたことを痛感させられた。
さて私はどうだろうか。ご存知の通り見掛け倒しの脆弱で、妻がいないと何もできない。妻がいるからこそ能動的に行動ができる。妻がいてこその15年間だったと言っても過言ではないことを改めて痛感させられた。

「嫌なことがあったら言ってね」は私がよく使う言葉。我慢が溜まって滞留して手出しできなくなる前に分散してくださいという意味合いをこめてだ。そして妻は答える。「生きてくれさえすればいい」「いまできそうなことをしてくれればいい」。米寿を迎える家族や物心ついた子供を相手に使う言葉を35歳の自分に真剣に言ってくれるのだ。そしてその言葉に救われている私がいることも確かだ。

こうして愛を語るけど、内容が伴っていなければ、少しずつ言葉は軽くなる。一等星しかみえない空に溶け込んで消えていかないように、妻の心にスッとおさまる言葉を探して、半歩ずつ進む努力はしていこうと思っています。今の自分にできること。とにかく元気にならなくちゃダメですよね。それが大変なんですけどね。半歩の歩みすら辛いときってありますね。

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