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夏休み【後編】〜OMO5函館編〜

後編は、今年の7月にオープンしたばかりのOMO5函館の2泊3日の旅です。
北海道に行くのは5回目なので、未踏のメジャーな観光地が旭川と函館くらいだった私は、配属が決まった時から青森にいるうちにOMO5函館に絶対行くと決めていました。
前編の星のや東京は、従姉妹の結婚式の日取りを知った1ヶ月前ほどに勢いで予約を取りましたが、こちらは3か月以上前の5/21に予約を取っています。

そんな待望の函館旅の振り返り、思った以上に盛りだくさんになったので最後まで楽しんでいってください!


百二十%ハコダテ OMO5函館

津軽海峡を船で渡ってみたかったので、行きは青森からフェリーで函館へ。
予報ほど雨が強くなることもなく、速度を抑えて運行しているおかげで、心配していた船酔いにも悩まされずに、海から下北半島を眺めて快適な船旅です。

青森の景勝地は詳しくないのですが、海から眺めていても仏ヶ浦には興味を惹かれました。
例えるなら日本のThe Seven Sistersといったところでしょうか。近くで見るともっと綺麗なのでしょう。

おそらく左の白い岩壁が仏ヶ浦

ハコダテ流、想像の120%

のんびり移動していたので函館に着いたのは夜の7時。
まず目に入ってくるのは、フェリー乗り場でも、JRの駅や電車内でも、至る所に今春公開の劇場版名探偵コナン『100万ドルの五稜星』のポスターが。
私もコナンは大好きなのですが、劇場版はワンパターンだなぁと飽きてきているのですっかり忘れていました。

旅行に行くときはどんなホテルなのか下調べせずに行くのがあの迷探偵流なので、ホテルに到着してまずハコの大きさに驚かされます。
OMO5はそれほど大きな施設ではないイメージでいたので、OMO7でもやっていけそうな10階建て以上あるホテルが出てくるとは思いもしませんでした。

さらに驚きは続きます。

チェックインの際に館内案内をしてもらいますが、なんと温泉の利用方法の説明があるのです。
全国のOMO5どころか、OMO全体を見渡してもちゃんとした温泉がある施設はないはずです。

たった5分で想像を超えてくる、OMOしろいホテルじゃないか。

夜のエントランスは映えスポットです

その日は疲れたのでホテルを探検しながらのんびり過ごすことに。2階のOMO BASEでくつろぎました。
このOMO BASEは1フロア丸ごと使っているので広々としていて、レコードが奏でるJazzとテラスからの涼しい風が心地よく流れていきます。

ご近所のJazz shopの店長セレクトなんだとか

このOMO BASEは写真映えするスポットがたくさんあるので、iPhone XRくんで頑張った成果をご覧いただきましょう。

お酒やお菓子などを楽しむこともできます。

他にも「ええ写」が狙えるポイントはたくさんあると思うので、写真を取るのが好きな人は、きっと楽しめると思います。

「街ナカ」ホテルなのに温泉が!?

1日の最後は移動の疲れを癒すために温泉へ。
「琥珀色の湯」の名の通り、褐色の本格的な温泉で効能もたくさんありました。
函館に来るときは長時間の移動になることがほとんどでしょうから、旅の疲れをしっかり癒して次の日からの観光をフレッシュな体で楽しめるのは嬉しいですね。

「朝食激戦区」に殴りこんだ朝食ビュッフェ

OMO5函館の最初のお楽しみが、さまざまなホテルが鎬を削り「朝食激戦区」ともいわれる函館で勝負する朝食ビュッフェ。

ダイニング中央には函館の象徴ともいえる五稜郭にちなんだ五角形のビュッフェ台。
メインは「海鮮ファイブスターズ」と名付けられた海鮮づくしのお料理。
ネタがお椀から溢れそうになる海鮮丼、名物いかめし、カニと鱈の昆布締めのお寿司、イカの炙り焼きに締めの潮ラーメン。

サイドのメニューも和洋中さまざま揃っているので、、ついつい食べ過ぎてすぐにお腹いっぱいになってしまいます。

もちろん大満足の朝食だったのですが、お城好きの私としてはここでもオタク心をくすぐられる体験がありました。
何も調べずにいた私は当然ビュッフェ台が五角形であることも知らないので、奥入瀬のように四角形の台をイメージして料理をとっていきます。しかし、本当は五角形なのでさっき海鮮丼コーナーがあったはずのところに別の料理が置いてあるわけです。寝ぼけた頭では一瞬訳がわからなくなります。

築城名人の藤堂高虎が、伊予宇和島城を築城する際にわざと五角形に縄張りして、四角形だと思って攻めてくる寄手に隙ができるよう仕向けたとされる逸話をまさにそのまんま味わった訳です。

この逸話は「そんなうまくいくわけない」くらいに思っていたので、実際に体験をしてみると少し悔しいものです。

国際都市函館の足跡をめぐる

旧函館区公会堂

腹ごしらえを済ませたあとは、いよいよ函館観光へ。
初日は明治の建造物が今に歴史を伝える元町公園エリアと金森赤レンガ倉庫のあるベイエリアへ。

函館観光の足として便利なのが「函館ぐるぐるフリーバス」
元町公園や金森レンガ倉庫、函館山ロープウェイ、五稜郭などの有名スポットを周回するバスです。
朝から夜まで本数も多いので観光計画がとても立てやすい!

函館は元々コンパクトな街ですし、路面電車も走っていますから移動手段には困らないんですが、ホテルから直接行けるのは暑い夏場には快適でした。

函館市街でも一際目立つ存在

元町公園エリアでは、旧函館区公会堂や旧イギリス領事館を見て回りましたが、意外だったのは赴任してきた領事たちの中には、庶民たちとの交流も積極的にし、現地の人たちから愛された方もいたということです。
当時は日本に関税自主権がなかったり、居留民が罪を犯しても領事に裁判権があったりしましたから、貿易都市函館では衝突が起きてもおかしくないと思っていました。

赤レンガ倉庫のナゾ

「知らないと気づかない」ことを毎回お届けすることをテーマに頑張っている私のnoteですが、今回は今やショッピングスポットとして繁盛している金森レンガ倉庫をテーマにお届けします。

ズバリ注目するのは「レンガの積み方」

レンガの積み方も国によってさまざま特色があり、それぞれ強度や工期などメリット、デメリットがあるようです。
函館には金森レンガ倉庫以外にも戦前から残る煉瓦造りの建築物がたくさんあるので、比較できたら面白いなぁ、程度に思いながら写真を撮って回っていたのですが、ラスボスの金森レンガ倉庫を見て驚きます。

なんと、隣同士で積み方が全く違うのです。

左が「イギリス積み」右が「長手積み」

イギリス積みと長手積みが隣同士建っているかと思えば、そのお隣には下はイギリス積みで上は長手積みという変化球。
もちろんフランス積みの箇所もありました。
同じ施工主で、工事をした人たちも同じはずなのに、それぞれ積み方が違うというのは面白い話です。

👆下だけイギリス積みの変化球 フランス積みの壁が残るチャペル👇

資料館などがなかったのでここからは私の想像ですが、当時の日本ではまだまだレンガ造りの建築の経験値が少なく、地震大国でもある日本にどの積み方が合うのかを実験したのではないかという結論に至りました。

というのも、この金森レンガ倉庫はどうやら二代目のようで、今あるものは函館を襲った明治40年の大火で焼け落ちたあと再建されたものです。
その頃貿易都市として発展していた函館では倉庫が足りなくなるほど貨物の取引がされていたようで、一刻も早く再建するためにも早さと頑丈さのバランスが取れた積み方を模索していたのでしょう。

もしくはイギリス積みで最初は積んでいたが、火事で再建したものは長手積みで造られていて、一部崩れずに残った部分を再利用したから上下で積み方が違う建物ができたのか。

どちらにせよ、さまざまな国からの船が行き交っていたであろう函館ならではの、隠れた国際色豊かな光景です。

また、帰りのバスを待っているときにも発見がありました。

寺社がことごとく端に追いやられている

ちょうど正面の壁に函館ベイエリアのマップがあったのですが、見事に神社仏閣が町の端っこに集まっていることに気が付きます。
歴史オタクなら、これを見て思い出すのは火事に悩まされた江戸の町づくりのお話。
江戸を火の海に包んだ明暦の大火の後、防火都市に変えるため江戸では寺社や大名屋敷が郊外に移転されていきます。理由はさまざま言われますが、そもそも神社仏閣は火元になりやすいですし、高い建築物が江戸城のそばにあるとそこから舞った火の粉で江戸城に延焼することが多かったことなどが理由として考えられています。

函館も幾度となく火事に悩まされ、明治11年と12年に続けざまに大火が発生した後、本格的に市区改正に取り組んだようです。
マップ右端にある実行寺、称名寺、高龍寺はすべてこの時に現在の位置に移転しています。
この市区改正後も函館は大火に見舞われるのですが、火事に悩まされながらも発展していった函館の街の足跡がこんなところにも隠れていました。

ベイエリアから見る函館山

実は時代遅れだった?五稜郭

最終日は五稜郭へ。
五稜郭というと、フランスの要塞建築の技術を導入した最先端の要塞というイメージが持たれているかもしれません。

死角を無くすための特徴的な星形の要塞は機能面だけでなく、見た目も美しいですね。
実際歩いてみると、火砲が発達した時代の戦闘にアジャストしたと思われる工夫が見て取れます。

←内側の石垣 外側の土塁→ 
さらに外側に堀が巡っています。

この写真で分かる通り堀や城壁が二段に分かれて造られています。これは高い城壁を作ると火砲の格好の的になるので低い城壁を幾重にも重ねることで、縦深防御で敵を防ぐという設計思想だと思います。

縦深防御の強さが一番わかりやすいのはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを1000年間守り続けた大城壁でしょうか。あれは三重に高い城壁が巡っていたので高さも深さもある、まさに難攻不落の要塞でした。

五稜郭には他にも工夫が見られます。
それが入り口前に設けられた半月堡と呼ばれるエリア。

半月堡からの眺め

本来は五稜郭の周囲5か所すべてに設ける予定でしたが、、予算と工期の制約のため正面の1か所のみとなったようです。
これは日本の城郭における「馬出し(うまだし)」と同じような思想で、攻め寄せる敵を側面から攻撃することで弱点となる入り口部分の守備を強化しつつ、反撃の出撃拠点ともなります。有名な例だと大坂冬の陣での真田丸なんかもこの類ですね。

こうしてみると五稜郭は最先端の堅固な要塞と思われるかもしれません。

しかし、当のヨーロッパでは火砲の有効射程が数kmまで伸びたことで多少堀を広くとったくらいではどうしようもなくなり、要塞による拠点防衛そのものが時代遅れとなっていたようです。
実際旧幕府軍と新政府軍が戦った五稜郭の戦闘でも火砲の射程の差は顕著に現れており、新政府軍は4km以上離れた海上の軍艦から五稜郭の奉行所をピンポイントで砲撃できていたようです。

両軍の火砲の性能差を示す資料が五稜郭にも展示されていました。

手前が新政府軍の艦載砲「クルップ砲」、奥が旧幕府軍の「ブラッケリー砲」

旧幕府軍のブラッケリー砲が砲身も短く射程も1000mほどなのに対して、新政府軍の軍艦「朝陽」に搭載されていたクルップ砲や同じく当時最先端のアームストロング砲は射程3000m以上。攻め方が城に直接攻め寄せる時代は終わっていたのです。
これではいくら設計に工夫をしようが、意味がありません。

五稜郭に籠った榎本武揚ら旧幕府軍のエリートたちがどこまで考えていたかはわかりませんが、函館の独立政府は建前で最後に一花咲かせたい武士の意地だったのかもしれません。

北海道の駅の終着駅みたいな雰囲気が好きです。@JR五稜郭駅

函館は海鮮をはじめ、美味しいご飯もたくさんありますし、見どころも盛り沢山、それらがコンパクトにまとまっている街なので2泊3日でも十分満足できました。
歴史のある街なので昔から続く名店も多く、今回の旅ではそういうお店のご飯を回りきれなかったのでいつかまた来たいと思います。

最後に個人的に印象に残っていることを。
実はこのOMO5函館で、磐梯での研修でお世話になった社員さんと再会しました。50人以上いた中の1人なので、当然向こうは覚えていません。

普通3日少し関わっただけの人間の顔を覚えているほうが珍しいですよね。人の顔を覚えているのが得意な私が特殊なんだと思います。
大抵のゲストは一度見た顔なら2,3日は顔を覚えていますし、印象的なゲストなら何年経とうと再会すれば気づく自信があります。この能力のおかげで私の名前を覚えてくれるほど仲良くなったゲストもいます。

そんな私の懐かしい研修から奥入瀬への赴任の様子はこちらをご覧ください!

函館も満喫したので、青森に未練はありません!笑
旅行中ずっと快晴だったせいなのか、帰ってくるとみんなに「日に焼けた?」と言われました。たった2日でそんなに変わりますかね?

最後まで読んでくれてありがとうございました!

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