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私のつくったものを見た人に、しばしば、「和を感じる」と言われることがあった。
まったく意識していないし、いつからか「和」とか「和風」という言葉にある種の反発を感じていたせいか、その時は正直、少々複雑な気持ちだった。

けれども、あらためて思い返してみる。

昔から模様を見るのが好きだった。
外国のもの、自国のもの、新しいもの、古いもの。
この国の模様は不規則なものが多い。
強弱、遠近、大小、差異を自然に、かつ、いちばん美しく見せたいところを美しく見せる方法を知っている。
敷き詰めるのではなく、余白、空間を活かして際立たせる。
それがこの国のデザイン力でもあり、ずっと敬愛してきた感覚でもある。
自分がつくったものにもその片鱗が反映されているのだとしたら、とても光栄なことだと思う。
そして、和を感じると言ってくれた人もまた、そんな余白の美しさを知っている人だったのだろう。

今は昔よりずっと余白がないと思う。
デザインがどうの、というより、頭の中の余白が少ない。
頭に余白がなければ、余白のないものが生まれる。
とても詰まっている。
「余白はもったいない。」
「無駄のない活用法を。」
「必要のない改行はやめましょう。」
「不要なファイルは削除しておいてください。」
要らないものはじつにスピーディーに消去できる。

音も然り。
とても詰まった音が流行る。
絶え間ない音が好まれる。
間奏とか、休符とか、そんなものを感じぬまま一気に駆け抜けていく音が求められる。

単なる嗜好や流行、合理主義、効率主義と言ってしまえばそうなのかもしれない。
ただ、漠然としてはいるけれど、触れていると疲れるものが増えたように感じる。

自分はとても無駄なことをしている、とよく思うようになった。
しかし、忘れてはいけない。
重要なのは、無駄の価値。

取り残されては意味がないけれど、無駄は不要ではない。
やはり最後はそう思いたい。



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