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日記に記すにはどこかもの足りなくて

あの女性の顔をなかなかに思い出せない。

それは
名前や年齢すらハッキリと
聞いていないからなのかもしれない。

このくらい肌寒くなると外で吸う煙草の煙は
より一層空気を白に染め上げる。
その白を目の当たりにする度に
あの光景だけは思い出せて、
名前も分からない女性がそこには立っている。

お名前伺ってもいいですか?

そう声をかけられた。
それはよく行く古着屋で店主と何人かを交えて
立ち話をした後だった。
友人から連絡が入り
ご飯を食べに行くことになった私は
店主とその場に居合わせた人に、
軽い会釈だけしてその場を立ち去り
外の駐車場で煙草に火をつけた。
吸い終わった頃に店内で立ち話をしていた
その女性はお店の前で
誰かと電話していたような素振りをみせた。
それすらも口実にしているかのように
私にそう声をかけてきた。

名前を名乗った私は、
店主との関係性を手短に話し
よくここに来るということを伝えた。
駅にはもう友人が到着したと連絡が入り
待たせるのも悪い気がして
足早に向かおうとし、

ではまたどこかで

と映画や活字の世界でしか見たことのないような
台詞を口走りまた軽い会釈をした。

年齢伺ってもいいですか?

もう駅に両足のつま先が方向転換し、
今向かう
と友達に連絡を打ち込み終わろうとしていた時に
その女性は引き止めるように話を続けた。
年齢を言うと見た目とのギャップのある私に
少し驚いた表情を見せ、
急に口調が敬語を
少し解いたようなものへと変化した。

女性に年齢を聞くのも失礼という認識が
おいくつなんですか
と言う私の脳内の疑問を綺麗に打ち消した。

名前を伺って少し冷える日の暮れた店先で
長話をするのも
また映画のようで良かったのかもしれないが
友人を待たせている私は
女性の年齢も職業も名前も聞かずに
共通の古着屋という接点だけを持ち合わせたまま
その場を去ることを選択した。

その女性は私の年齢も職業も名前も把握していて
私は何も知らない。
ただその事実がどこか奇妙で心地よくて

家に着いて机の上にある
毎日その日の事を一文にまとめる日記帳には
サボりぐせが見事に反映されて
ところどころ煙草の煙よりも真っ白い蘭があった
ペンを持って
その日の蘭に

日記に記すにはどこか物足りなくて

と小さく書いて
ベランダに出た私は
また煙草に火をつけていた。

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