【小説】お弁当狂騒曲 第2話「百年の恋も冷めた夜」
――なんだ、なんなんだこのゴミ屋敷は。
僕は、シンクの前で汚れた皿を洗いながら、隣の多和田さんに目をやった。多和田さんは、昼間会社での清楚な服装から一転、部屋着のジャージに着替えて、髪もてっぺんで束ねている、おまけに眼鏡をかけたその姿は、どう見ても、モテそうにはなかった。
(こういうことを、きっと百年の恋も冷める、っていうんだな)
僕は溜息をつきながら、皿をゆすぎ、多和田さんに「もうこっちはいいから、居間のテーブルあたりを、食事ができるように片づけてください。いまからぶり大根つくります」と言った。多和田さんは、よろしくね、と眼鏡の奥で笑うと、るんるん言いながら居間へ戻って行った。
なんとか気をとりなおして、僕はぶり大根をつくりにかかった。大根を鍋でゆがき、ぶりのあらには熱湯をかけまわして臭みをとる。大根が煮えたら、ぶりと合わせて、生姜を淹れた煮汁で煮始めた。くつくつ、鍋がいっているのを聞きながら、付け合わせとしてミニオムレツと白菜サラダもつくった。ごはんも炊いた。
できあがった食事を居間の丸テーブルへと運び、多和田さんと二人で食卓を囲む。多和田さんは、わあ、美味しそう、と歓声を上げると「いただきます」と手を合わせた。
もぐもぐ一心不乱に食べている多和田さんに、僕はおそるおそる聞いてみた。
「部屋って、いつもこんな感じなんですか?」
「こんな感じって?」
「いや、なんというか、散らかってる、というか、片付いてない、というか」
「ああ、そういうこと」
多和田さんは白菜サラダを食べながら、言った。
「私、片付けが苦手で。家にいたときは、全部じいやがやってくれていたから、何も困らなかったんだけど」
「じいやって、多和田さんのお家は王族ですか」
思わずつっこみを入れた僕に、多和田さんは苦笑した。
「地元の名家なだけ。でも、堅苦しくて、どうしても、家を出たくて。最初はこの部屋に、なんにもなかったんだけど、気が付いたら、服とかマンガとか買いまくってて、いつしかこんな状態に」
そうしゃべる多和田さんの後ろに、服の山とマンガの山ができているのに、僕は溜息をついて、申し出た。
「明日、僕も多和田さんも休みですよね? 僕、今夜簡単に片づけますんで、明日から一緒に片付けしましょう。僕、ただで泊めてもらって、何もお礼せずに帰るの、あれなんで」
正直、この部屋を見た瞬間から、僕は片づけたくて片づけたくて、むらむらしていたのだ。本は本棚に、服はクローゼットに、ゴミはゴミ捨て場に。あるべき位置に、すべて戻したい。そういう欲求を、押さえられなくなっていたのだった。
「えーっ、でも、そこまでしてもらうの、悪いかも」
そう言った多和田さんに、僕は笑顔で言った。
「ていうか、この部屋で眠れる気、マジしないんで」
嫌味に聞こえたかな、と思いながら多和田さんを見ると、彼女はまじまじと僕の顔を見つめた。そして、小さな声で、ありがとう、と言った。
僕はその晩、食べたお皿を片付けて、実家に帰る多和田さんを見送ったあと、ゴミ袋をぜんぶゴミ捨て場に移動した。散らばっている本やマンガを、一か所に集めたあと、本棚に並べた。服はたたんで、クローゼットにしまったり、ハンガーにかけて吊るした。掃除機もかけたかったが、深夜にほかの住人に迷惑になるのを考慮して、あきらめた。
さすがに、多和田さんのベッドには転がることは遠慮してできず、客用ふとんを押入れから取りだすと、床に敷いて寝た。くたくたになった僕は、あっという間に、眠ってしまった。
翌朝、目が覚めると、僕は一瞬、自分がどこにいるかわからなかった。周りにはまだ片付いてないもろもろの山、その中に布団と僕がいて、やっと昨日のことを思い出した。
(あー、しかし、すっごいもん見ちゃったなあ)
清楚な多和田さんが、まさかゴミ屋敷に住んでいたとは、まったく予想を裏切った展開で、彼女に憧れていた僕の気持ちを、どうか返してくれ、と神様にでもお願いしたい気分だった。
しかし、じいやがいるなんて、本当に名家、っていうかお金持ちなんだなあ、と僕は改めて多和田さんに対して思った。
僕の実家は、けして裕福ではない。父は一昨年ガンで亡くなり、母はまだパートに出て五十代の今もコマネズミのように働き詰めだ。僕だって、わずかのお給料から、家に仕送りをしているから、ああいうボロいアパートにしか住めないのだ。
東京に来て、お金のある人にたくさん会った。仕立ての良い服を着られて、節約などせずとも、高いランチを食べられて、高級マンションに住んで。そういう人たちは、自分が恵まれていることにさえ、滅多なことで気づかない。
多和田さんも、そういう人なんだろうなあ、と思って、僕は一人で住むには広すぎるであろう2DKの部屋全体を見回した。僕なら、この部屋、もっと気持ちよく整えて、大切に暮らせるのにな、と。
時計が九時を回った頃、多和田さんが現れて、昨日よりもものが散乱していない部屋の様子に、感激している。
「わあー、すごい。名取くんて、お料理も上手だし、お掃除も上手なのね」
そう言うと、多和田さんは鞄からパンの袋を取り出し、僕に「朝食、まだ食べていないんでしょう」と渡してくれた。
「実家のそばに、美味しいベーカリーがあるのよ。焼きたてだから、早く食べて」
渡されたクロワッサンは、まだほんのりと温かく、ちぎるとふわりと良い香りが漂う。かいがいしく、多和田さんは缶コーヒーまで用意してくれていた。
「ありがとう、ございます」
今日の多和田さんは、眼鏡をかけていなかった。昨日僕が、一緒に片付けましょう、というのをちゃんと聞いていたらしく、オフホワイトのトレーナーにワークパンツという、作業に適した格好をしていた。
「あのね、私、お恥ずかしいことに、片づけのやり方とか、掃除のやり方とか、全然知らないの。母に習おうと思っても、母も、貴族みたいに暮らしてきた人だから、ぜんぜんそんなことできなくって。家のお手伝いさんに習おうとしても、父が恥ずかしいからやめなさいっていうのよね。私昨日、考えていたことがあるのよ」
「なんでしょう」
僕は、今度は何が飛び出すんだと、ひやひやしながら、訊いた。
「お願い、名取くん。私に、花嫁修業の指導をして! ――私、家と家との間で決めた、許嫁がいて、いずれはその人と結婚するんだけど、このままじゃ、結婚しても、なんにもできなくて、婚家を追い出されちゃう。おねがい、バイト代は払うから、ときどきうちに来て、家事を教えてくれない? ――ほかに、誰も頼めないの」
僕の頭に、カミナリが落っこちたようだった。許嫁。いずれ結婚。――ゴミ屋敷と化した部屋を見た時に、いったん砕け散っていた僕の恋心は、さらにこっぱみじんとなった。でも、僕はのどがからからになるのを感じながら、つい聞いていた。
「バイト代は、いかほど」
「月に、これだけで、どう」
そう言って彼女は、五本の指を広げた。
「ごせんえん、ですか」
「まさか。五万円よ」
「やります」
僕は即答していた。これで、実家にもっと仕送りができるじゃないか。僕の暮らしも、少し助かるじゃないか。しかし、なんて無茶苦茶な女性なんだろう、多和田さんという人は。僕は立ち上がると、
「じゃあ、掃除をはじめますから、指示した通りにやってください」
と言った。多和田さんは頬を染めて、
「はいっ、名取コーチ!」
と笑った。その笑顔にまた落とされそうになって、僕は唇を噛む。いいようにされるのが、なんだか快感で、僕は本当に、やばいことに足をつっこんじゃったな、と思い、ゴミ袋を引き寄せた。
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