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【第10話】ガトーショコラは甘くて苦い

第1話「オムライスの届け先」
前話「家族三人のナポリタン」

二月になり、大きなデパートでも、小さなショッピングモールでも、バレンタイン商戦がいまこそはと、行われている。私は地元の小さなチョコレートショップで、丹羽のためにガトーショコラのパッケージをひとつ買った。丹羽から二月中に連絡がくるかどうかはわからなかったが、バレンタイン用の箱をひとつ、手元に置いておくだけでも、なんとなく気分が優しく、落ち着くように思えたからだ。

大学が冬休みになったので、私はまたななかまどに週六で出始めた。紺堂は、基本的に、高瀬さんや、うちの母がいる前では、熱烈に口説いてきたりはしないので、私はなるべく、高瀬さんと常に一緒にいるようにしていた。

そして、二月十三日のこと。昼ごろ、電話が、リリリンと鳴った。取った高瀬さんが、私にだけわかるように、小声で「丹羽さんです」と言った。その後、厨房の紺堂さんに向かって「オムカレーの出前です! すぐにお願いします!」と言った。

紺堂は「どこから、出前?」と聞いたが、高瀬さんは機転を利かせて「林田のおじいちゃんですよ! 千夏さんが行くそうです!」と大声で言いながら、私に向かって目配せした。

「高瀬さん、アリガト」

私はドキドキしながら、オムカレーを紺堂が仕上げるのを待ち、仕上がるとすぐに、おかもちに入れ、スクーターに飛び乗った。外まで追いかけてきた高瀬さんが、

「千夏さん、ごゆっくり。今日帰らなくても、いいですよ。紺堂さんのことは、私がうまく丸め込んでおきます」

と耳打ちしてきた。私は苦笑いして、「そんなに時間はかからないよ」と言うと、

「駄目です。ゆっくりしてこないと、許しませんよ」

などと高瀬さんがいうので、笑ってあとをお任せした。ガトーショコラの箱は、いつ丹羽が来ても渡せるように、エプロンのポケットに入れてあった。エプロンのポケットをさわり、ちゃんと箱が収まっているのを確認すると、私はスクーターを発進させた。

久しぶりに入った丹羽の部屋は、壁一面にはってあった浮世絵のレプリカポスターが全部はがされて、とても殺風景だった。本棚にたくさん並んでいた専門書も、すべてダンボールに詰め込まれていた。

「外寒かったでしょー、ありがとね、わざわざ来てもらって」

丹羽はオムカレーの皿を受け取ると、置いてあったこたつに、私も入るように言った。こたつの中で、丹羽の足先と私の足先がぶつかり、お互い、照れたようにひっこめあってから、また笑い合った。

「もう、来週から、ほとんど東京に行きっぱなしになってしまうんだ。卒業式の日は、こっちに帰って来るけど、その日は夜遅くまでずっと宴会だから、ちなっちゃんとの時間がとれなくて。ほんと、今日にいきなり呼びつけるくらいしか、時間をとれなくてごめん」

いいよ、と私は笑って、エプロンからガトーショコラの箱を取り出して、丹羽に渡した。丹羽は目をまるくして、

「くれるの? ——いいの?」

と、すごく嬉しそうな顔をした。開けていい? と言われるので、うん、と、答えると、丹羽は丁寧に包装紙をはがし、箱を開けると、目を輝かせた。

「俺、ケーキの中ではガトーショコラが一番好き」
「そうなの?」
「いま、ちなっちゃんがくれたから、一番好きなケーキになった」

なにそれ、と笑うと同時に、胸の内に寂しさが押し寄せてきた。これで、丹羽が来週からいなくなるのではなかったら、ただの仲の良い、両想いのカップルの会話だったのだろう。でも、別れを目前にした二人の、最後のやりとりになるから、どんなに睦まじい会話をしても、寂しさがはりついているのだった。

「俺、紅茶入れるから、一緒に食べようよ」

丹羽がこたつを出て、キッチンへと向かう。あれー、どこ行ったかなー、しまっちゃったかな、と、棚を見始める丹羽の背中に、気持ちを押さえられなくなった。私もこたつを出ると、思わず背後からその背中に抱きついてしまった。

「丹羽、さん」

私を抱きつかせたまま、そのまま動きを止めた丹羽に向かって、私はゆっくりと言葉をお押し出す。

「本当に、本当にありがとう。丹羽さんのこと、好きになって良かった。——ムカつく、って思ったこともあったけど、いっぱいヤキモチも焼いたけど、丹羽さんが、ずっと丹羽さんだったから、私、いつでも安心して怒ったり泣いたりできた。

丹羽さんが、やりたいこと、ずっとやれるように、私、応援してるから。私の前に、ずっと道が続いていくように、丹羽さんも、自分の階段を、昇れるところまで昇っていって」

「ちなっちゃん——ありがとう」

丹羽は、私が抱きついていた腕を優しく外すと、「ちょっと待って」と言った。そのまま、棚から、紅茶ではない——何か、小さな細長い小箱を持ってきた。

「俺のほうからも、ちなっちゃんにプレゼントがある。——受け取ってくれる?」

びっくりして、受け取り、箱を開けると、中には深紅の石があしらわれた、銀のネックレスが出てきた。

「ちなっちゃんに、きっと似合うと思う」
 
丹羽はそう言うと、ネックレスの金具をはずし、丁寧な手つきで、私の首にかけた。

「すごい、いい感じ」
「——ありがと」

嬉しすぎて言葉が出なくなっていると、丹羽は、私の顔を、私が十二月にこの部屋で丹羽に向けてやったように、両手ではさむと、そっと口づけた。温かい、と思ったとたん、心の糸が切れて、涙がひとすじ、私の頬を伝った。涙もまた、温かかった。

そのまましばらく余韻にひたった後、私はゆっくりと立ち上がった。

「もう、行く? 行ってしまう?」

丹羽が、静かにそう言った。
「うん、帰るよ。これ以上いたら、東京に行かないで、とか、わけわからないこと、言ってしまいそうだから」

丹羽も立ち上がると、私に手を差し出した。私もその手を握った。

「ちなっちゃん、本当に、ありがとう。ちなっちゃんのこと、ずっと覚えているよ。本当に、ありがとう」

もうこれ以上嗚咽を押さえらえなくて、私は、丹羽の手のひらを振り払うようにして、すぐに玄関に向かった。靴を履き、さよならも言えずに、ドアを閉めた。あとからあとから涙があふれ出てきて、もう止められず、私はそのまましばらく立ち尽くして泣いていた。


家に帰ると、なんだかふらふらして、熱を測ったら三十八度もあった。泣き過ぎたせいかもしれないし、寒い外に出前に行ったせいかもしれないけど、私はそのまま、三日間ほど寝込んだ。寝ている間に、ちらちら丹羽の夢を見て、熱があるのに、どこか甘いその雰囲気にひたっていた。

熱が下がり、目を覚ました朝、私は一人きりのベッドに身を起こし、はっとした。

——丹羽は、もう、この町にいない。それを、静かに胸の奥で受け止めた。もう、涙は枯れていて出なかったけれど、高熱が下がるのと一緒に、私の心も決まっていた。

三日ぶりに店に顔を出し、開店準備をしていたら、紺堂がつかつかとやってきて、

「千夏さん、ちょっとお時間よろしいですか」

と言ってきた。私は紺堂と、二月下旬の店の外、凍えた空気の中、向かい合った。紺堂は、コック服のポケットから、小箱を取り出すと、真剣な顔つきで言った。紺堂が開けた、その小さな布張りの箱の中には、ピンクゴールドに、透明なダイヤを乗せた華奢な指輪が収まっていた。

「千夏さん、僕と、結婚してください。エンゲージリングです。受け取っていただけませんか。僕は本気です。絶対幸せにしますから、一緒に生きていく相手として、僕を選んでください」

私は、すうっと深呼吸すると、熱が下がったときに、紺堂に言おうと覚悟していたことを言った。

「——ごめんなさい。あなたと結婚することは、できません。これが、私の最後の答えです」
「どうして。あなたが好きな人は、もう遠くに行ってしまうはずです」

「私は今、丹羽さんのことも、紺堂さんのことも、選ぶことはできません。だから——この先は、一人でがんばってみます」

「千夏さん……あなたはそこまで、あの男のことを」
「仕方ないんです、ごめんなさい。――あなたのコックとしての腕は、素晴らしいと思ってます。ななかまどにこの先もいるかどうかは、父と話し合ってください」

紺堂は、黙って地面をにらんでいたが、三十秒ほどそうしていたあとに、強い声で、「わかりました」と言った。

「店長にも相談して、しかるべき時期に、この店を出ます。千夏さんと一緒になれないのであれば、僕はこの店を離れたほうがいいと思います。でも、最後に言わせてください。千夏さんが、本気で、好きでした」

私は黙って頭を下げた。心の中で、本当に、ごめんなさい、ありがとう、と言いながら。春を待つまだ冷たい風に、吹きっさらしにされながら、何度も、紺堂へのお詫びと感謝の言葉を、心の中で私は繰り返し続けた。

第11話(最終話)「桜色のバームクーヘン」


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