【第11話】桜色のバームクーヘン【完結】
第1話「オムライスの届け先」
前話「ガトーショコラは甘くて苦い」
——それから、三年の月日が飛ぶように過ぎた。
私は大学を無事四年で卒業し、その後は洋食屋『ななかまど』の正式な店長を、父から譲られた。年齢は、二十四歳になっていた。紺堂が出て行ったあと、コックは二人変わったが、今は、角野すずなさんという頼もしい三十代の女性コックが、ななかまどの正規スタッフとなっていて、私と高瀬さんと母と四人、女ばかりで店を回していた。
季節は、三月下旬。桜のつぼみがふくらみ、もうすぐ満開を迎えようとしているこの頃、私たちは店の手土産として考案中の、バームクーヘンの試作のことで、わいわいきゃあきゃあと、相談したり味見したりしていた。
角野さんは、洋食もできるが、もともとはパティシエ志望だったそうで、お菓子づくりがとても上手い。角野さんが来る前は、母のホームメイドのケーキばかり置いてあったななかまどだったが、彼女を迎えて、ショーケースに並ぶケーキ類は、ぐっと本格的になった。
角野さんがオーブンから焼きたてのバームクーヘンを取り出すと、私と高瀬さんはそのいい香りに、思わず歓声を上げた。
「へーっ、黄色じゃなくて、薄ピンクのバームクーヘンなんですね」
高瀬さんの目が輝く。角野さんが、その言葉を受けて言った。
「はい、桜をモチーフにした、桜風味の、バームクーヘンなんですよ。ちょっと食べてみてください」
角野さんが、そう言って、バームクーヘンを切り分ける。まだ温かい一切れを、もぐもぐと食べてみた。
「——美味しい。本当に、あの桜の塩漬けや桜餅と、同じ風味ね」
「バームクーヘンは、とても縁起のいいお菓子なんですよ。木の年輪をイメージしていて、夫婦の長寿と子孫繁栄を願っているので、結婚式の引き出物なんかにもぴったりで」
その言葉をさえぎって、高瀬さんが言った。
「角野さん、千夏さんに結婚の話は、禁句ですよ。何しろ、胸の中に大切な人が、今でもいるんですから——」
「いいよ、気にしなくて」
苦笑した私に、角野さんが言う。
「でも、私はなんだか予感がするんです。千夏さんに、もうすぐ、本当に春が来るような——、なんだか、今にもそのドアを開けて、来るような、そんな予感が」
「ありがと、角野さん。桜のバームクーヘンは美味しかったから、このまま、試作を進めていただいてかまいません。どうぞよろしくね。あ、高瀬さん、お客様、来たよ、応対、応対」
「はあい」
それで、その場はおひらきになった。私は、店の帳簿を取り出すと、もう一度確かめて、棚に戻した。
三月の最終日、外はうっすら、春の雨に濡れていた。角野さんが、あたたかいビーフシチューを煮ている音が、ことことと厨房から聞こえ、高瀬さんと私は、ぽっかりとお客さんが来ないこの午後二時の時間、ひまをもてあましていた。
だんだん暖かくなり、もうすぐ桜が咲きそろう。桜のバームクーヘンは、もうすでに準備が整って、明日の四月から、店頭で販売が始まる。とくに広告も出していないけど、口コミのみじゃ、広がりが弱いだろうか——そんな風に、ぼんやりとしていたそのとき、チリリンとドアベルが鳴って、ドアが開き——私は息を呑んだ。
立っていたのは、まぎれもない丹羽だった。喉がからからになって、私はそこに棒立ちになって、動けなくなった。夢を見ているのかと、思ったのだ。
「こんちは、久しぶり」
丹羽は懐かしいその声で、私たちに挨拶した。高瀬さんが、はしゃいだ声で、私の背中をどんっと押した。
「千夏さん、注文聞きにいってくださいっ」
私は、よろけながら、丹羽を窓際のテーブル席へと案内し、震える声で聞いた。
「ご注文は」
丹羽は、いたずらっぽい目で、私を見、メニューをひとしきり眺めた後、ぱたんとメニュー表を閉じて言った。
「まだ、空いてたらの話だけど」
——空いてたら。どういうことだろう、と怪訝に思って見つめると、丹羽は私にゆっくりと告げた。
「ちなっちゃんの隣の席を、この先ずっとご予約できますか?」
後ろで高瀬さんが、きゃあ、と言った。
「それ、どういう」
「——美術館で三年目を勤めながら、俺の卒業した大学で、講師の口がないか、ずっと探してたんだ。院生時代の先生に、口ききしてもらって、この春から、この町の大学で講師として働けることになった。この町にはこの先ずっといるつもり。だから、またこの店にも通わせてもらうから、よろしく」
「それ、って」
「だから、言ってるでしょ。ちなっちゃんの隣の席をこれからずっと、用意できるの、できないの」
言葉よりも先に、また涙があふれた。——この人は、いったい何回私を泣かせたら、気が済むのだろう。
「……すぐに、ご用意できます……」
膝を折って泣き崩れた私の頭を、丹羽がぽんとなで、「ただいま」と笑った。
それから半年後の秋。丹羽と私は、二人の母校の教会で、結婚式を挙げた。常連のお客さんや、高瀬さんや角野さん、たくさんのお互いの友達が出席してくれたにぎやかな式になった。もちろん引き出物には、角野さんの考案した桜のバームクーヘンをつけさせてもらった。
披露宴も二次会も終わった帰り道、私と丹羽は、これから暮らす新居に向かって、二人で手を繋いで夜道を歩いていた。
「あー、これから、毎日ちなっちゃんと一緒に暮らせるのかあ」
「——嬉しい?」
「うん。でもたまには、店からうちに、スクーターに乗って出前に来てほしい」
「自分の自宅に、出前に!?」
私がそう驚くと、丹羽は、三十手前の男にしてはかわいすぎる笑顔で言った。
「だって、なんだかちなっちゃんが出前に来てくれると、嬉しいんだもん」
だもん、じゃないから、とすかさず頬を赤くしつつ言う私に、丹羽がぽつりと言う。
「——たぶん、俺も最初から気になってたのかもしれないな、気付かなかっただけで」
私が思わず息を止めると、丹羽は、最高の笑顔で憎たらしく笑った。
「——なんてね、じょうだ……いっててて」
言いかけた「冗談」の一言は、私が丹羽の脛を蹴り上げ、夜闇に消えることになる。
月が白く光っている。もう二度とクロスしないと思っていた二人の道が、再び重なりあって、今度はまっすぐ、一本道として、ずっと未来へと延びていく。ずっと、その先も、延びていく。
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