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【第9話】家族三人のナポリタン

第1話「オムライスの届け先」
前話「二人だけのクリスマス」

丹羽の部屋から戻り、そうっと家の鍵を開けると、廊下で繋がれている店内からは、もう明かりがついていた。私が入って来た物音に気付いたのか、紺堂が厨房から廊下へと出てきた。もしかして、昨日帰らず夜じゅう厨房にいたのだろうか。

「千夏さん、お友達とのお泊まりは楽しかったですか?」

低い、明らかに疑っているような声で聞かれ、私は顔をそむける。

「当日連絡の朝帰りなんて、いままでになかったことじゃないですか」
「いいじゃない。私だって、もう二十歳過ぎてるのよ?」
「相手は、友達じゃなくて、あのお客さんじゃ——」

「うるさい」

一言小さく告げて、二階への階段を駆け上がった。昨日、クリスマスケーキの試食につきあわなかったのは悪いし、フィアンセ(と勝手に思い込んでいる)の紺堂の気持ちをまったく考えず、丹羽と一夜を過ごしたことはたしかに悪いけれど——

階段下から、壁をどんっと蹴るか殴るかしたような音と、「くそっ」という紺堂の悪態が聞こえて、私は身を縮めた。

『ななかまど』は、そのまま、年末年始の休業へと入り、十二月も押し迫った年内のある日、私は高瀬さんを誘って、ベーグルが美味しいカフェでお茶をした。

暖房が効いた店内で、高瀬さんがアールグレイを飲みながら、私に訊ねた。
「で、千夏さんと丹羽さんは、今どうなっているんですか」

しゅうう、と湯気を立てるように赤くなってうつむいた私に、高瀬さんは言った。

「ま、まさか———上手くいってるんですか」
「というわけ、ではないんだけど」

根ほり葉ほり聞かれて、私はついに、水橋さんにけしかけられたこと、丹羽とのあの夜のこと、そして、その朝に、丹羽へ「自分は東京についていけない」という旨を話したことを喋ってしまった。

「えーっ、えーっ、えーっ」

高瀬さんは鼻息を荒くして聞きつつも、言った。

「私も、千夏さん、東京行ってもいいと思いますけどねえ」

「そんな、高瀬さんまで。父の腰はまだあまりよくないし、その状態で私までいなくなったら、店がきっとつぶれちゃう。あの店は、両親が開いた、とてもたいせつな『我が家』だし、そう思って通ってきてくれるお客さんも、大勢いる。そんなことは、できないよ」

「うーん、でも、卒業したら、とりあえず東京で、大きなホテルとか、老舗の洋食屋とかに、スタッフとして就職する、なんて道もありますよ。そこで、経営のこととか、店を発展させることとか、学べるんじゃないでしょうか。そうして丹羽さんとお付き合いを続けた後、もしお付き合いが駄目になったりしたら、またこっちに戻って来るとか」

「そんな無責任なことはできないよ」
「そぉですかぁ」

私も熱いアップルティーのカップに口を付けながら、淡々と返した。自分は店をまっとうすることに意固地になりすぎているのかも、と思わないでもなかったが、私はやっぱり、私の信じたことを通したいのだった。

「丹羽さんからは、そのあとなんかありますか?」
「うん、向こうに立つ前に、また連絡するって」
「きゃあ、一歩前進じゃないですか」

「前進も何も、もうほぼ終わったことになってるから、向こうも気楽なのかも」

丹羽とあの朝別れる前に、私は初めて、丹羽から「次の約束」をもらった。「いまずっとばたばたしてっけど、上京する前に、あと、1回くらいは会おうな」と、丹羽の家を出るときに言われた言葉が、気持ちの支えだった。たぶんそれが、本当のお別れのときなんだろうけど、私は、その日が来るまで、背筋を伸ばしていたいのだった。

店を閉め、家族だけで過ごす、とても静かな年末年始だった。何か不思議な時間が流れていて、私は何かを待っているようだった。丹羽はこの先いなくなるけど——それでも、自分の心が少し強くなったような年だったように感じた。

年が明けて三日してから、まだ店には立てないが、少し歩けるようになった父と二人、近所の神社に初詣に行った。おみくじを引くと、大吉で、こんな最悪の失恋の年の先は、いいことが待っているのだろうか、ほんとに、と思えて笑った。父も、大吉で、今年こそはよくなるといいな、と笑い合った。
家に帰ると、ケチャップのいい匂いがした。母が、ナポリタンを三人分つくっていたのだ。

「なんだなんだ、なんで正月にナポリタンなんだ」
「いいじゃない、お餅、もう飽きちゃったもの」

「ナポリタンは、父さんの店に出すやつより、母さんのこっちの家の味のが、私好きなんだよねえ」
「勝手に言ってろ」

そんな軽口の応酬も、父の腰がおもわしくなかったときにはなかったことだったから、私は嬉しく思った。父はまだ回復していなくても、家族三人、身を寄せ合って、難局を乗り切ろうとしている——そしてそこには、高瀬さんや、紺堂など、力を貸してくれる人もいる——。

いろいろ必死にがんばった一年だった、新しい年は、もっといい年になるといい、と思って、私はナポリタンの麺をすすった。

年末年始、休んでいる間に、紺堂は、どうやら気持ちを立て直したらしい。開店前の余った時間に、強引に、結婚式はどうしたいか、という話を臆面もなく話題にするようになっていた。

「千夏さんは、フランスとイタリアなら、新婚旅行どっちに行きたいですか。どっちも、食べ物は最高に美味しいところに連れて行ってあげますよ」

「——別に、ていうか、私まだ結婚するともなんとも言ってないんですけど」
「僕は、きっとあなたと結婚できると思っているから、楽しい未来の予定を立てたいんです」

そのほかにも、指輪やドレスのカタログを持ってきては、「指輪のサイズは何号ですか、やっぱりダイヤがいいですよね」だの「千夏さんには披露宴のとき、赤いドレスが似合うと思います」だの、あっけらかんとのたまうので、私はついにキレた。

「なんで、そう勝手にいろいろ進めようとするの?——私の気持ちを、無視して」

「千夏さんが、いつまでも、見込みのない恋に、とらわれているからです。それよりは、僕と新しい未来を描きましょう」

まったく動じない紺堂に、私は大きくため息をつくと、セットメニューのブラックボードを書きに、チョークを用意した。

「あ、雪」

店のドアにはめこまれたガラス越しに、ちらちらと粉雪が舞い降りてきているのが見えた。真っ白な雪に、このまま紺堂と二人降り籠められてしまうような気がした——そうすれば、もう、逃げ場はなくなってしまう。自分が、一羽の鳥だとしたら、丹羽は放し飼いにするけれど、紺堂はきっと、カゴの中から絶対出さないタイプのように思えた。

第10話「ガトーショコラは甘くて苦い」

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