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【小説】初春(はつはる)の迷子

みよの住むちいさな長屋にも、ちゃんと正月が来た。きしむ引き戸をがたつかせながら開けると、元旦の清新な外気がさっと奥行二間半の室内にも通って、みよは大きく息を吸って吐く。

八年前の春に祝言を挙げた、大工である亭主の五兵衛は、まだ寝正月を決め込んでいる。せっかくお屠蘇と雑煮の準備ができているのに、うすい布団にうすい夜着をかぶって、ごうごうといびきをかいている。


「まったく、お気楽なこと」

にらむようにして、五兵衛をちらりと見ると、引き戸を閉めて土間から畳敷きの部屋に上がり、五兵衛の耳元で、みよは大きな声を出した。

「いつまで寝てるんだい、おてんとさんもとっくに上がっちまったよっ」

五兵衛はみよの大声を聞いても、むにゃむにゃと寝言を言いながら幸せそうな寝顔を見せるばかりで、まったくこたえているふしがない。

みよは首を横にふると「ああ、さむさむ」と言って、火鉢のそばに駆け寄った。綿入れ半纏を羽織っていても、なお足元から寒さがはいのぼってくる。

うちにも、年神様はおいでだろうか? そんなことを想いながら、あかあかとした炭を眺めていると、少し手先があたたまってきた。

ようやく五兵衛が頭をかきながら身を起こし、みよに声をかけてきた。


「なあ、みよ。表でこどもの声がしねえかい?」

はっと思い、みよが耳を澄ませると、たしかにとぎれとぎれに、女の子らしい泣き声が聞こえた。起きて来た五兵衛とみよが、引き戸を開けると、裏長屋の井戸の近くに、小さい女の子がうずくまって泣いている。


「どうしたんだい? 元旦からおとっつぁんやおっかさんとはぐれちまったのかい?」

五兵衛が膝を折り、女の子に尋ねた。みよも、女の子をのぞきこむ。女の子は涙にぬれた顔をあげると、二人の顔を見て言った。


「おっかさんが、住んでいた長屋の店賃が払えなくなって、二人して大つごもりの晩においだされちゃったの。それで夜通し、頼れそうな親戚のところを二人でまわっていたんだけど、どこからも断られて。しまいに、おっかさん、足が疲れたろうからこの井戸のところで待っていて、ってあたしに言ったっきり、消えてしまったの」


五兵衛とみよは顔を見合わせた。このご時世、気の毒ではあるが捨て子の話は珍しくない。みよは、なるべく明るい口調に聞こえるように、女の子に聞いた。


「腹が減ったろう。うちで、雑煮を一緒に食べて行かないかい? なけなしの餅だけど、あんたにちょっと分けるくらいならある。おっかさんが待っててほしいと言った井戸はうちの前だから、戸を少し開けておけば、おっかさんが戻ってきたら中から気が付くさ。腹をすかせていちゃ、元気がでないからね」


五兵衛も「そうだ、それがいい」と言って、女の子をちいさな二人の長屋に招いた。小さな餅を入れた汁椀を、女の子に渡すと、大きな瞳をおっことしそうにして「いいんですか?」とみよに聞いた。


「迷子の女の子を正月から見捨てたとなったら、神さまに叱られてしまうからね」


五兵衛も餅を食べながら優しい声で訊く。


「お前さん、名はなんというんだい? しばらくたっておっかさんが戻ってこないようなら、辻番にも相談してみよう。なぁに、すぐそこの辻番にいる弥助は、おれの顔馴染みだから、きっとなんとかなるさ」


「名前は、さちといいます。――お餅、おいしい」


熱くした出汁をふうふうすすりながら、頬を真っ赤にさせているさちを見て、みよの心も和んだ。みよと五兵衛のあいだには、子はない。一度流産し、そのあとはできなかったのだ。

川を挟んで向こうの町に住んでいる五兵衛の両親から、みよはときどき、嫌味を言われた。気にすまい、と思っても、五兵衛の子を産めなかった、という辛さは、替えがたいものがあった。


しかし、どうだろう。こうしてみよと五兵衛とさちと三人で、元旦に餅を食べながら談笑していると、まるで実の娘を得たようだ。

疲れ切って満腹になったさちが、船をこぎはじめたので、みよは自分の布団にさちを寝かせ、夜着をかけてやった。さちはすうっと寝入った。

みよの胸はざわざわする。六年前の冬、流れてしまったお腹の子が、ちゃんと育って産まれていたら、齢は同じくらいだろう。しかし、そのことを五兵衛に言えば「なにを正月からばかなことを抜かしてるんでえ」と叱られるだろう。


さちは、あくまで人の子。私たちの娘が、現れたなどと思ったりしてはいけない――。結局、日がとっぷりと暮れても、さちの母親が井戸のそばに現れる気配はなかった。気を落としているさちに、五兵衛があたたかい声音で声をかける。


「三が日がすんだら、辻番に顔を出してみるからよ。きっと、おっかさんは帰ってくる」


みよも、五兵衛も、その言葉が一時の気休めにしか過ぎない言葉となってしまうかもしれないことは承知していた。それでもみよは、そう言葉をかけざるを得ない五兵衛の優しさに、ほっと息をついた。


飯椀も汁椀も、二人分しか長屋にはなかったから、みよとさちは一つの椀を分け合って、その日の夕餉を食べた。飯も菜も、二人分のところをさちにも分けたから、いつもより量は少なくはあったが、不思議と満ち足りた。

その晩は、五兵衛が大工仲間と飲みに出るといい、布団をゆずってくれたので、みよは五兵衛の布団を使い、さちはみよの布団を使った。昼寝もしたのに、またあっという間に眠りに落ちたさちの顔を眺めて、その額にそっと手をあてる。子どもらしい、高めの体温が感じられて、みよは頬をゆるめた。

その晩、夢を見た。おっかさん、おっかさん、と誰かがみよを呼んでいる。みよは「はいはい、あんたはどこにいるんだね」と答える。娘は母を探しているが、母としては娘がどこにいるのか真っ暗闇でわからない。お互いに、さぐりさぐりしながら、ようやく娘の手に触れた――そのあたたかい手のひらをつかんだと思った、そのときに目が覚めた。

ガラガラ、と引き戸が開いて、五兵衛が帰ってきた。明け方だった。さちはまだ、すうすう寝ている。五兵衛は、うっすら酒くさい息のなか、小声でみよに告げた。


「さちの母親らしき女が見つかった。大工仲間のなかに、町の噂に詳しいやつがいるから、そいつと飲みに行って、いろいろ聞いてきた。さちを置いて男と逃げようとしていたらしいが、その男が借金で首がまわらなくなって、結局さちの母親と逃げることはかなわなかったようだ。母親はいま、放心状態になって、親戚の家にいる。おれは、明日、母親に会いに行って、うちでさちを預かっているから、引き取りにくるよう、話をつけてくる」


「待っておくれ」

みよはいっぺんに目が覚めて、五兵衛に頼みこんだ。


「そんな薄情な母親のもとに、戻るさちが気の毒じゃないかね。いっそ――いっそうちで、さちを引き取ることはできないだろうか」
「みよ」


五兵衛も酔いがさめた顔で、苦渋の表情を浮かべた。


「無理を言うんじゃない。おれたちは、ただの通りすがりの他人だ。さちだって、ずっと暮らしてきた母親のもとがいいに決まってる。――わかってるよ、みよ、お前が、流れた子に、さちを重ねていることは。ちょうどあのくらいの年齢だったものな」


みよはそっと五兵衛の胸に顔をうずめて、声を殺して泣いた。

五兵衛は翌日、さちの母親にちゃんと話をつけに行き、無事に説得すると、母親を連れて帰って来た。そうとは知らずに、みよはさちと並んで、土間のへっつい(かまど)でさちと飯を炊いていた。


「それ、それ。もうちょっと火を熾さないと」

みよが笑いながらそう言うと、さちは火吹き竹を使って、ぷうっと頬をふくらませ、火の勢いを強める。たった二日三日過ごしただけなのに、自ら炊事を手伝うさちがいとおしくて、みよは目を細める。


「みよ、さち、今帰った。さち、おっかさんが迎えにきてくれたぞ」

とたん、さちは火吹き竹を取り落とし、母親に駆け寄った。竹は、からん、と音を立てて土間に転がった。


「おっかさん、おっかさん……」

母親にとりすがって泣くさちを、母親もまたしっかりと抱きしめていた。ぱちぱちと薪のはぜる音のなか、みよは不思議な、心の安寧を得ていた。

正月二日の朝に見た、あの夢。あの「おっかさん」と私を呼ぶ声はさちの声ではなかった。きっと、流れてしまった実の子が、さちにばかり気を寄せるみよに、寂しくなって、夢に出て来てくれたのだ。


「さちを預かっていただいて、ありがとうございました。もう二度と、このようなことはいたしません」


深々と頭を下げる母親に、五兵衛とみよは顔を見合わせた。


「まあ、あんたも大変だったんだろうよ。けれど、世の中にゃあ、望んで子ができねえ、おれらみたいな夫婦にとったら、あんたのしたことは、やはりよくねえと思う。ちゃんと改心して、さちを大事にしてくれよ」


涙ながらに頷く母親と手をつなぎながら、さちも頭を下げた。


「五兵衛さん。みよさん。お世話になりました。よかったら、また遊びにきていいですか」


「さちのためにも、ぜひそうさせていただけたら」


こぞってさちと母親がそう言うので、みよも五兵衛も最後は笑顔になった。

正月二日の夕暮れの日が差し込む長屋は、さちを失ってがらんとしている。みよは、長屋の外に出て、もう二人の影がないことをたしかめながら、年があらたまったことを感じた。

静かなはずだった元旦の、とんだお客だった。こんどもし、さちと母親がうちに来たら、そのときは何か温かく甘いものを食べさせてやろう。そんなことを思いながら、みよは引き戸をしめて長屋の中に入った。


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