【児童文学】僕のあだ名は

僕は、何をやるのもだいたいのろい。学校の黒板は、最後まで書き写さないうちに、先生がチョークで書いた内容を「はい、次ね」って消しちゃうし、給食の時間は、給食当番の女子たちに「もうっ、お昼休みになってもまだ食べてるの、奥山くんだけだよっ。あたしたち片づけて遊びに行けないじゃない!」ってすぐどやされる。かけっこだって遅い。逆上がりだって、できたのはクラスで一番最後。おまけに、しゃべるのだってゆっくりだ。

こんな僕には、クラスのみんなや先生が喋っている言葉は、まるで外国語みたいにすごく速く聞こえて、会話についていくのすらやっとだ。そんな僕を、クラスのみんなは「トロ」ってあだ名で呼んでくる。

「おい、トロ! おれ、算数の教科書忘れたからお前の借りるぞ。トロはどうせトロトロしててついてけないだろ」

クラスでサッカーの得意な平田くんが、僕の机の中から算数の教科書をさっと抜き取った。あ、と口に出すひまもなかった。

「え、ねえ、かえし、てよ」

僕がアワアワしながら手を伸ばしても、平田くんは教科書を高くかかげたまま、返そうとしない。

「トロはどうせ勉強ついてけないんだから、俺が代わりに、真面目に勉強してやるんだから、むしろ感謝しろよ」
「ちょっと、ちょ、っと」

お昼休みの最後、そんなことをしている間に、午後のチャイムが鳴って、みんな席についてしまった。僕は平田くんから算数の教科書を奪い返せないまま、のろのろと自席に戻る。

僕の人生、十一年生きてきてこんなことばっかりだ。

算数の教科書がないまま、担任の中本先生が教室に入ってきて、授業がはじまった。

「はい、この問題わかる人、手をあげてー?」

クラスのあちこちから、はい、はい、と手が上がる。僕は教科書もないし、とっても困ってしまって、下を向いていた。

中本先生も、五年生の新学期がはじまったころには、僕を何度かあてたけど、僕が何も答えられずに、「えっと、えっと」ばかり言って、クラス中に失笑が広がるのがいつものことになってからは、積極的にあてなくなった。

小学校ですら、ずっとこんな感じだから、僕は、ちゃんとした中学生になれるんだろうか。さいわい体は元気だから、休まず学校には来ていたけど、ときどき、つらいなあ、と思ったりしていた。

僕は、どうやったら、みんなみたいにちゃんとした子どもになれるんだろう。

とぼとぼ学校から歩いて帰ると、ちょうど父さんが、店にのれんをかかげているところだった。紺地に白く「栄寿司」の文字が染め抜かれているのれん。そう、僕のあだ名の「トロ」は、僕がトロいからだけじゃなくて、家がお寿司屋さんだからでもある。本名の「友哉(ともや)」がいつしか「トモ」になり、それからさらに「トロ」に変化した。

「おお、友哉。いま学校帰りか。お腹すいたろう。巻き寿司食ってくか?」

僕は、うんとうなずき、まだ「準備中」の札がかかった店の引き戸を、父さんの後ろについて入った。

「栄寿司」は、カウンターが八席と、座敷があるだけの、小さな寿司屋だ。クラスメイトは、僕のうちが寿司屋だと知ると、「マグロのトロとか、いくらとか、食べ放題なんだろ? あ、でもトロがトロ食ったら共食いだな」とかからかってくるけど、正直マグロのトロなんて高いもの、お客に出しこそはすれ、僕の口にはめったに入らない。

「子どものうちから舌が肥えすぎてどうする」というのが父さんの口癖で、僕がいつも食べられるのは、太巻きとか、ギョク(卵焼きのお寿司)とか、刺身の切り落としの丼とか、そんなものばかりだ。

僕は、カウンターのはじの席に座ると、父さんが用意してくれた太巻き寿司を、お茶と一緒にゆっくり食べた。少し甘い、かんぴょうの味が、僕は好きだった。

もそもそと僕が寿司を噛んでいると、父さんが、聞いてきた。

「友哉、最近は学校、どうなのか? ちゃんと勉強、しているか?」
「うん、まあ、まあだよ」

僕はそう言った。教科書をとられたとか、かけっこでまたビリだったとか、そういうことを言いたくはなかった。

ガラガラと店の勝手口の引き戸が開いて、母さんが現れた。

「あら、友哉、お寿司つくってもらったの、いいわねえ。父さん、友哉にあら汁も出してあげたら」

母さんの声で、父さんは、できたてのあら汁も、一杯よそってくれた。熱々のうちのあら汁はとても美味しい。ふうふう言いながら食べて、お腹いっぱいになったので、店の奥の階段を上って、自分の部屋に入った。

僕の家は、一階が寿司屋の店舗、二階が自宅となっている。自室の畳にごろんと寝転がると、夕焼け空が見えた。

今日も学校で、「トロ」「トロ」ってからかわれた。でもきっと、からかわれるのは、なにひとつ上手くやれない僕が悪いんだ。寿司職人のぱりっとした父さんと、働き者の母さんと、二人はとてもいい親なのに、なんで僕みたいな、駄目な奴が生まれたんだろう。

「友哉は、おっとりしていて優しいね」
「お前は、流されずにどんと構えられるところがいいとこだ」

母さんも、父さんも、口々にそう言ってくれるのに、僕は自分をいいと思えない。トロじゃなくなりたいのに、いつまでも、トロだ。いったいどうしたら、僕はもっと良い子になれるんだろうか? この頃いつも、僕はそんなことを考えている。

翌日、五年一組のクラスでは、みんなが将来の夢について、グループを組んで発表した。

「僕は社長になりたいです! みんなに人気のWEBサービスをつくって一儲けします」

「私は、パティシエになって、東京に自分の店を持ちます」

みんな目をきらきらさせながら、思い思いの夢を語った。

僕の班の司会を務める、眼鏡の柴田くんが、僕に聞いてきた。

「奥山くんは、何になりたいですか。立って、発表してください」

ぼーっとしていた僕は、あわてて立ち上がった。クラス中の視線が集まる。だらだら冷や汗が流れてきて、僕は何を言いたいのかわからなくなってしまった。

「ええ、とっ、ええ、とっ」

すぐに、クラスの男子の茶々が入った。

「トロは、寿司屋を継ぐんだろー、迷うことひとつもねえじゃん」
「トロが出すトロ、食べたーい。まけてくれるんだろっ」

げらげらとクラス中に笑いが起きる中、僕はいつもにない大声を出した。
「僕はっ」

一瞬静まったクラスで、僕は言った。

「僕は、まだ何になりたいのか、わかり、ません!」

思わず涙がこぼれて、真っ赤になった頬に伝って、僕はあせった。父さんの寿司屋が、嫌いなわけじゃないのに、僕は正面切って、そこを継ぎたいと言える自信がなかった。いつもトロトロしている、トロだから。きびきびした、かっこいい寿司職人になって、父さんといいっしょに寿司を握っている姿が、どうしても思い浮かばないのだった。

中本先生が、あわてて飛んできて、必死にフォローをはじめた。

「そうよね、まだ将来の夢が決まらない人だっていて、普通だわ。決まらない人は、奥山くんみたいに、まだ決めてません、ってそんな答えでいいのよ」

僕のあとも、将来の夢の発表は続いたが、僕のように「わかりません」という子は誰もいなかった。僕はとても落ち込んで、家に帰ると、寿司屋に寄らずに、直接二階へ上がり、布団にもぐりこんで、泣きながら眠ってしまった。夜七時ごろ、ふっと目をさますと、隣の部屋で母さんが誰かと電話をしているのが聞こえた。「先生、うちの子は」という漏れ聞こえた声から、中本先生だとわかったが、僕は何も聞きたくなかったので、耳をふさいで無理やり眠った。

翌日の朝、めずらしく父さんが僕を起こしにきた。布団から出ず、ぐずぐずしている僕を見て、父さんが言う。

「友哉、今日は父さんは店を臨時休業する。一緒に出掛けよう。友哉は、学校も今日は休んでいい。中本先生にはもう連絡してある」
「え?」

僕は昨夜の涙で腫れた顔で起き上がると、父さんに聞いた。

「どこに行くの」
「釣りだ、釣り。母さんがお弁当をつくってくれてるぞ。友哉の好きな、たこのからあげもあるぞ」
「なんで、また、急に、釣りなんか」

父さんは僕の前に片膝をついて、僕と視線を合わせた。

「中本先生から、聞いたんだ。学校で友哉が、泣いたこと」

僕は顔がカーッと熱くなるのがわかった。父さんに泣いたことがバレて、恥ずかしい。しかも自分は、寿司屋という跡を継げる仕事が家にありながら、何になりたいかわからないと言ってしまったのだ。父さんに、申し訳ない。僕はその思いでいっぱいになった。

「友哉と普段からもっと話していたらよかったのかもしれないが、父さんも不器用で、寿司をつくってやるしか、できなかった。たまには、店を休んで、友哉と、男同士、ゆっくり話したい。その機会を設けるために、釣りに誘っているんだ。一緒に、来てくれるか?」

「いま、着替えるよ」

僕がそう言うと、父さんは「下で待ってるから」と言って階段を下りて行った。

「初夏のアジ釣りに行くぞ」

父さんは僕を寿司の配達用の車の助手席に乗せると、そう言った。車のエンジンがかかった。学校を休んだ少しの後ろめたさが、最初あったが、あまりにいい天気に、すこしずつ気分が晴れてくる。三十分ほど走って着いたのは、港の堤防だった。

父さんと釣り道具を持って、やってきた堤防は思い切り潮の香りがして、もうすでにぽつぽつと釣り客がいた。二人で、まずは港近くの釣り具店で、エサを買う。エサは凍ったアミエビだ。

エサを買って、バケツに入れて、竿を持ち、僕らは堤防へ歩いて行くと、釣り客と釣り客の間に、自分たちの場所とりをする。

釣竿の先に、針とは別にエサを入れるおもりつきの小さなカゴがついていて、このカゴにエサのエビを入れて、海へ放すらしい。このエサにつられたアジが、6本ある針に引っかかるのを待つのだそうだ。

僕と父さんは、さっそく竿を海に向けて軽く投げ、おもりが海の底に着くのをたしかめると、ゆっくり、上下に揺らし始めた。リールも少しだけ、巻く。

すぐに、僕の竿が、くくっとしない、海中に引っ張られる反応があった。

「うわ! もう食いついた! 父さん、どうしたらいいのっ」
「ゆっくり、魚が逃げないように気を付けながら、リールを巻くんだ。そう、そう、その調子……ほら、釣れた」

引き上げた糸の先の針には、まるく太ったアジが二匹かかって、堤防のコンクリートの上でびちびちと跳ねていた。

父さんが、自分の竿を海中から引き揚げた。父さんの竿にも小アジが一匹かかっている。父さんは順番に、僕の竿にかかったアジと、父さんの竿にかかったアジの口から、針をはずして、氷の入ったクーラーボックスの中に入れる。

「すごい、僕でも釣れるんだ」

「そうさ、アジ釣りは簡単なんだから。それに、釣りは、根気も必要なんだ。友哉ののんびりした性格は、もしかしたら釣りに向いているかもしれないぞ」

僕らはそれから、たくさんたくさんアジを釣った。釣り糸を海に垂らしていると、父さんが話しかけてくる。

「学校、しんどいか」

そう聞かれて、僕はつい口に出してしまった。

「僕、学校で、トロって呼ばれてる。もちろん父さんのお店が寿司屋だってこともあるけど、なんでも、ゆっくりだし、トロいから。駄目な奴で、ごめん」
「謝るな」

父さんが、僕の頭を、竿を持っていないほうの片手で、ぐしゃっと撫でた。

「友哉。お前は駄目な子なんかじゃないよ。いまの世の中は、なんでも速いことがいいことのように言われるが、父さんはそうじゃないと思う。ものごとのすべては、すぐに結論が出ることばかりじゃないんだ。ゆっくりじっくり考えて、お前はお前の答えを出せばいいんだよ。――将来、この店を継ぐかどうかも、ゆっくりじっくり考えたら、それでいいんだ。トロい、ということは、悪いことだけではないんだよ」

目の前の海が、ぼやけてにじんでいく。泣きそうになるのを必死にこらえて、釣りに集中しようとした。竿がまたしなった。引き上げると、また釣れていた。

「大漁だね」
「おう、友哉が釣ったアジだぞ。家で調理して食べよう。美味いに決まってる」

そのとたん、僕は思ったことを口に出していた。

「父さん、このアジ、お寿司にできるかな。僕、このアジで、お寿司をつくってみたいよ」

父さんは、にこにこしながら言った。

「うん、一緒に作ってみよう」

家に帰ると、母さんはクーラーボックスいっぱいのアジを見て、手を叩いて喜んだ。僕は、エプロンをつけて、父さんの隣り、白木のカウンターの中に初めて立った。

「このアジは、酢でしめて押し寿司にしてみよう。きっと美味しいぞ」

僕ははじめて、三枚おろしというやり方で、魚をさばいた。包丁だって普段持ち慣れないし、おっかなびっくりさばいたアジは、すぐに身がぐちゃぐちゃになった。難しい、そう思っていると、父さんが言った。

「父さんだって、最初はできなかったんだ。根気よく、ねばり強くやっているうちに、すこしずつ魚と上手くつきあえるようになった。友哉は、何事もゆっくりだけど、根気とねばり強さの素質はあると、父さんは見ているよ」

その言葉を信じて、僕はアジをおろしつづけた。7匹目の三枚おろしが、思いがけなく上手くおろせて、僕は目を瞠る。

「そう、すこしずつ、上手くなっているよ。ゆっくり、上手くなればいいんだ。お前は、お前のペースで、上手くなればいいんだよ。きっと、できるから」

そのあとは、アジに塩をふり、酢でしめて、寿司飯とアジを巻きすでくるみ、形を整えた。とても時間がかかってくたびれたけど、僕は、はじめて寿司を父さんとつくれたことに、嬉しさを感じていた。

寿司屋のカウンターの中に入ってみたい、ということは、いままで、怖くて言えなかった。どうせ、トロだから。どうせ、できないから。そう、自分で自分を、ずっとしばっていたことに気が付いた。

家族三人の夕食の席で、美味しいアジ寿司を食べながら、僕は言った。

「父さん、僕、お寿司屋さんになるかはまだわからないよ。だけど、今日はすごく楽しかった。また、一緒にお寿司をつくりたい」

父さんは、晩酌をしながら、目を細める。

「おう、まだまだ時間はあるから、ゆっくり考えたらいい。父さんは、いつでも応援しているぞ」

僕は、お腹の底がちょっとだけあったかくなるのを感じながら、明日からまた、学校でがんばろうと思った。


――半年後。まったく予想しなかったことだけれど、僕は、クラスの中で一目置かれる存在になっていた。

「ねー、トモ。この字は何て読むの」

秀才の眼鏡の柴田くんが、僕に質問する。手には「漢字クイズ」の本。魚へんの隣りに、石の字が書かれている。

「いしもち、だよ」
「じゃあこっちは?」

続いては、魚へんに、冬の字。

「このしろ、と読むよ」
「すげー、トモ、漢字クイズ、百発百中!」

柴田くんが僕の背中を、ばんばん叩く。お寿司屋さんを、継いでもいいかなあ、と父さんと釣りに行って思ったあの日のすぐあとに、僕は寿司屋の湯呑みに書いてあった、魚の漢字に興味を持って、覚え始めた。

魚の漢字はたくさんあったけど、時間をかけてがんばって覚え終わり、そうしたらほかの漢字にも興味が出始めて、僕は植物や動物など、漢字辞典を引き引き、いろんな字を覚えた。

「馬酔木は?」
「あせび」

「柘榴は?」
「ざくろ」

「栗鼠は?」
「りす」

いつの間にか、クラスメイトには、漢字博士のトモ、として認識されるようになっていた。トロ、というあだ名で呼ぶヤツも、ほとんどいなくなった。

父さんと、栄寿司の定休日には二人でカウンターに立って、寿司を握るようになっていた。もっとも、やっぱり僕は覚えるのがゆっくりだから、すぐに上手くはならなかったけど、根気と粘り強さ、という父さんからもらった言葉を支えにして、厨房で特訓した。

そんなある日、学校から家に帰る途中で、平田くんと一緒になった。半年前、僕を、「トロ」「トロ」とからかって、教科書をとった平田くんだ。

平田くんは、ちょっとためらうようにして、「トロ」と僕を呼んだ。
「うん、なに?」

僕はまっすぐに平田くんの目を見て聞いた。
「もうトロじゃないな、漢字博士のトモだな」

照れたように笑う平田くんを見て、僕も笑った。
「トロでいいよ。どしたの」

「こんど、単身赴任の父ちゃんが、久しぶりにうちに帰ってくるんだ。そのときに、お前んちの寿司食べに行こうって、父ちゃんに言おうと思うんだ」
「うん、来てよ」

僕がにこにこすると、平田くんは言った。
「うまい寿司食わしてって、トロの父ちゃんに言っといてな!」
「言っとくよ」

僕らはそう言って、にやにやけらけら笑った。僕は、寿司屋のトロだ。あいかわらずゆっくりなところはたくさんあるけど、トロってあだ名を、僕は誇りに思う。


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