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#小説
【小説】週末だけのコーヒー店
どうせ別れ話に過ぎないのに、バーガーショップじゃどうしてだめなんだよ。俺が、金に困ってるのはよく知ってるくせに。三ヶ月付き合った「一応まだ恋人」の理恵は、俺の心中も察してくれず、数歩前をどんどん先に歩いて行って、その「週末だけ開いているコーヒー店」を目指していく。
目の前でひらひらとした薄紫のマーメイドスカートの裾が揺れて、健康そうなふくらはぎがのぞいた。俺は「こいつのこの服は、初めて見るな」と
【短編】日曜日のピザ
要るもの、要らないもの、要るもの、要るもの、要らないもの。手元で手早く分けると、要るものは引っ越し用段ボールの中へ、要らないものは燃えるゴミと不燃物にさらに分け、ゴミ袋の中へと押しこんでいく。
二人でディズニーランドに行ったときにおそろいで買ったコップは「そっちで要るかどうか判断して、要らないなら処分して」と、卓郎が仕事をしているパソコン机の上に置いた。
彼はかたちのよい眉を細めて「うーん」と
【短編】給湯室のハーブティ
キーボードを打つ手を止めて、オフィスの壁掛け時計を見上げたら十九時を数分回っていた。そのまま首を左右に揺らしたあと、指先で揉んだ。本来なら退勤しているはずの十七時からさらに二時間、ノートパソコン画面を見つめ続けていたので体の節々が凝り固まっている。
ふいに喉の渇きを覚え、露木佐恵はビジネスチェアを引くと立ち上がった。座りっぱなしで、最近腰が痛い。三十代も半ばを過ぎると、疲労は寝ても寝ても、完全に
【短編】金色に染まる
姉の紗羽が離婚し、息子の佑真を連れて実家に戻ってくるという話を聞いたのは、葉桜の緑が目にまぶしい季節だった。そういうことだから、と炊飯器からたけのこご飯を盛り付けながら、何気なく話したおふくろに、僕は問いただした。
「え、じゃあこの狭い一軒家に、おふくろと親父と僕に加え、紗羽姉と佑真が住むってわけ?」
僕は高校を卒業したあと、一度大阪のガス会社に勤めたが、続かなかった。それで実家のある北陸の町
【小説】だれかのかわり
城戸さんから「一杯飲まねぇか。つきあってくれ」と初めて言われたのは、年があらたまってからすぐのことだった。雪がちらつく夜に、作業服の背中を二人とも丸めてガード下の居酒屋へと向かった。工業高校を卒業したあと「吉本設計」という住宅施工会社に社員大工として入ったおれに、この三年弱仕事をたたきこんでくれた恩人が城戸さんなのだ。そんな人からの突然の誘いなので、ついていかないわけにはいかなかった。
店に入る
【小説】レシートの記憶
ホットスナックのからあげ五個、コーヒーMサイズ、そしてメンソールの煙草。その三点の商品が印字されたレシートを、僕は社会人になったいまでも部屋の引き出しの中にしまいこんでいる。
これは、河野さんのこの店での最後の買い物だった。このレシート一枚が、僕と彼女がたしかに同じ時間を過ごした、そのまぎれもない証拠なのだった。
僕が東京にある大学に合格を決めたとき、父は農作業用のトラクターを磨きながら、から
【小説】rebirth(再掲載)
花や木が好きだ。可憐な色合い、澄んだ青い匂い。植物は、いつも私の心を和ませてくれる。仕事のない休日、実家の庭に出て、土をいじっている時間が、私にとってはいちばんの至福のときだ。――その反面、ひとは苦手なのだけど。
季節は六月で、今月の庭は薄紫と白を基調に染め上げられている。ラベンダーと紫陽花の紫、クチナシとカラーの純白。ペチュニアやインパチェンスが、そこにさらにこまかな彩りを添える。
寄せ植え
【小説】スープがならぶまでに 征吾篇
いつも、一瞬遅いのだ。泣くとわかっていれば「いまからさあ泣かれるぞ」という心がまえができるのに。和佳奈が泣き始める兆しを捉えるのが自分は遅い、と小松征吾は大きく肩を落とした。気づいたときにはもう、娘は火がついたかのごとく大声で泣きわめいていて、手の施しようがない。
もうこうなるとなだめてもすかしても効果はなく、ただひたすらなるべく優しく聞こえる声かけをするよう努めながら、内心「子供の声がうるさい
【小説】暗がりに泳ぐ
同僚である堀内さんのアパートを訪ねるのは、初めてのことだった。老舗の和菓子メーカーの商品企画部に今年の春から配属された私は、三歳上の堀内さんに何かと仕事を教えてもらうことが多くて、彼のことをとても頼りにしていた。
一緒に働いて三カ月。堀内さんの穏やかで聡明な人となりを知っていくうちに、私の心は自然と彼に惹かれ始めていた。
先週の会議のあと、実家の栃木県から段ボールいっぱいの野菜が届き過ぎて困っ
【小説】ひよどりストア桜が丘店 青果部門
ふっと頭の端をかすめるのは、幼い頃の自分の姿だ。炒り卵の中に入っているピーマンを「苦いんだもん」とよけてばかりいたら、母にたしなめられた。嫌いなものは嫌い、好きなものは好き、と白黒がはっきりついていた私の世界。いつから、そこをあいまいにして、ピーマンが食べられるようになったんだっけ――?
考えていたら一瞬作業の手が止まりそうになり、麻野ふみはあわてて腕時計を確認した。午前八時二十分。ふみの職場で
【児童文学】父さんとあたし、313kmの旅
父さんからは、日によって土や泥の匂いがする。洗濯機のそばの脱衣カゴに脱ぎ捨てられた泥水と汗で汚れた作業服を見て、あたしは顔をしかめる。今日は外作業の日だったのだろう。
こんな泥まみれの作業服のうえに、自分の服は載せたくなかった。しょうがないので物干し場からもう一つ、カゴを持ってくると、自分が着替える前に着ていた服を、そっちに入れる。
どうせ洗濯機のなかで一緒になってしまうのかもしれないけれど、
【小説】父に似たひと
十五年近く使った洗濯機が壊れた。センサーの故障で脱水ができなくなってしまい、修理よりも買い替えのほうが安いと言われてしまった。家電はいっぺんに壊れるというが、今月電子レンジも壊れて新調したため、残念ながら家計は逼迫している。
僕は年金暮らしの母と二人暮らしをしている、ヒラの会社員だ。勤めている会社は、中小企業の、どちらかといえば「小」寄りの企業で、そこまでお給料も高くはない。母と相談して、洗濯機