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2017年8月の記事一覧
【小説】ひとりで生きる
目を落としていた文庫本から顔を上げると、蓉子は仕事鞄からのど飴を取り出して、個包装をひとつ剥くと、口の中へ放り込んだ。八月の後半、夕刻を少し過ぎた電車の中は、冷房がきつすぎて寒いほどだ。鞄からさらに長袖のカーディガンを取りだすと、蓉子は隣の邪魔にならないよう注意しながらそれを羽織った。少し、寒さが軽減された。
県立高校で国語教師をしている蓉子にとって、喉のケアは毎日必須だった。生まれつき喉が弱く
【小説】letters
言いかけた言葉を喉元で飲み込んで、私はもう空になったグラスの底に溜まっているわずかのグレープフルーツジュースをストローで啜った。カフェのオープン席で、テーブルの上に置かれた映画の半券の青いスタンプのにじみを見ながら、今日という日をずっと忘れないだろうと思った。真向かいの席に座っている菅野さんが、胸ポケットから取り出した煙草に火をつける。その煙がゆっくりと立ちのぼるのを私はただ眺め、そして告げた。
【短編】ボンゴレ・ロッソの赤い罠(改稿)
本当に熟れたトマトを、見たことがあるだろうか。もう青いところのない、もうちょっと日が経てばくずれてしまうだろう、その赤くて大きな実。僕がそれを初めて見たのは、ある女のキッチンでのことだった。
「友達が農家でね、こんなにたくさんトマトが送られてきたの。もう少しで、傷んじゃうから、トマトソースをつくる」
女の名は、和田真紘といった。真紘は、さっきまで僕と一緒にいたベッドの中からするりと抜け出して、