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【短編】ボンゴレ・ロッソの赤い罠(改稿)

本当に熟れたトマトを、見たことがあるだろうか。もう青いところのない、もうちょっと日が経てばくずれてしまうだろう、その赤くて大きな実。僕がそれを初めて見たのは、ある女のキッチンでのことだった。


「友達が農家でね、こんなにたくさんトマトが送られてきたの。もう少しで、傷んじゃうから、トマトソースをつくる」


女の名は、和田真紘といった。真紘は、さっきまで僕と一緒にいたベッドの中からするりと抜け出して、僕に段ボール箱の中から大きなトマトを取りだして見せた。

紺色に白いドットのキャミソールに、ショートパンツという素肌をさらした恰好で、真紘はベッドの僕に背中を向けて、キッチンでお湯を沸かし、トマトの湯剥きをはじめた。


しばらくすると、ニンニクのいい香りがただよってきて、僕は唾を飲み込んだ。僕が真紘のマンションに転がり込んでから一ヶ月、真紘はことあるごとに手料理をつくってくれたが、そのどれもが絶品で、僕はすでに胃袋をつかまれてしまっていた。

今日の料理も、期待できそうだ。そう思って、僕はついこの間まで元恋人といたマンションにはもう帰りたくないな、と改めて思った。


僕が元恋人――七瀬さやかと一緒に五年も住んでいたマンションをついに出てしまったのは、一言でいえば、真紘に篭絡されてしまったからだった。

さやかとの間には、結婚話が進んでいたが、プロポーズもしていないのに「ながく付き合ってるから」という理由だけで、どんどん結婚に向けて外堀を埋めようとしてくるさやかのやり方を、正直不服だと思っていた。

結婚式費用は、あなたの貯金から300万は出してよね。この雑誌に出てくる指輪がいいなあ。エンゲージリングはこっち、マリッジリングはそっちが、私の好みなんだけど。あなたの友達や上司にも、紹介してね。自慢のフィアンセだって。

さやかは日を追うごとに、図々しくなり、調子に乗り、毎日結婚式関連の雑誌を読んで僕にあれがほしいこれがほしい、結婚式はこの教会で、ドレスはここのメーカーがいい、と、欲望をふくれあがらせていった。

そんなさやかは、いつしか、もう僕が好きだったさやかではなくなっていた。逃げ出したい。さやかとの未来から、僕を束縛するあれやこれやから、とにかく逃げたい。そう思ったときに、出会ったのが真紘だったのだ。


会社の飲み会でさんざん飲んだ帰り道、コンビニの外にある喫煙スペースで一服しようと近づいたとき、そこにはすでに先客がいた。ゆるく巻いた髪、薄い唇。ふちどりのあるまつげ。きれいな子だな、と思った。好みの子だな、とも。

身体の線をかくす大きな白いTシャツに、デニムのショートパンツを穿いて、すらりとした長い脚が目に入った。ラメの入ったきらきらしたサンダルを履いていた。

僕はじろじろ見るのも失礼だと思ったので、彼女から顔をそむけ、ライターを取りだして火をつけようとした。が、つかなかった。きれている。それに気付いた先客の女が「ふふっ」と笑って、火を貸してくれた。

「ありがとう」と僕は言った。見れば見るほどきれいな子で、年はおそらく三十歳の僕より五歳以上若いだろう。僕らはそのまま、少し立ち話をした。真紘という名の子だと知った。かわいいね、などとも、酔いのあまりに口走ったかもしれない。

僕はつい「帰りたくねぇな」と言っていた。「帰りたくねぇよ」と。愚痴のつもりだった。僕の事情など、話す必要性など全くないと思っていたので、その場限りのさやかへの不満を、ただ煙草のけむりとともに吐き出したかったのだ。

僕の言葉を聞いた真紘は「じゃあ、うちにおいでよ」と言った。「帰りたくないなら、うちに来ちゃえばいいじゃない」と。完全に、酔いが手伝った感じで、僕はその晩、真紘の家に泊まった。そして――一言でいえば、篭絡されてしまったのだった。

さやかが昼間出かけている間に、こっそり荷物を取りに戻り、置手紙をした。「しばらく帰りません」と。そして僕は、真紘の家で暮らすようになった。


最低だ。僕をそうなじる声がどれだけ多いだろう、と思いはするのだが、僕は真紘の魅力に、完全に落とされてしまったのだった。真紘となら、どこに堕ちたっていい。そんなことすら、僕は思った。

真紘がキッチンから戻って来た。ベッドの前の小さいテーブルに、皿に盛られたパスタを、二人分置く。トマトソースとニンニクの、素晴らしい香りが充満する。

「なんのパスタ?」
訊いた僕に、真紘が答える。

「ボンゴレ・ロッソ。あさりのトマトソースだよ。私、ボンゴレパスタは、ボンゴレ・ビアンコよりもボンゴレ・ロッソが好きなの」

あさりの入った真っ赤なパスタ。赤ほど、真紘に似合う色はないように思えた。僕をいっぺんに夢中にさせた、真紘の口紅の色もまた、赤いトマトの色だった。

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まさか僕の居所が、携帯のGPS機能でばれるとは、僕は実際にさやかに踏み込まれるまで、思いもしなかった。それくらい、真紘との日々に、浮かれきっていたのだった。

真紘と二人、彼女のマンションでくつろいでいたとき、ピンポンとドアチャイムが鳴った。真紘に「出て」と言われて僕は、どうせ宅配便か何かだろう、と思って勢いよくドアを開けた。そこには目をつりあげたさやかが仁王立ちしていて、僕はまぬけにもぽかんと口を開けて「なんで」と言ってしまった。さやかは、憤怒の表情のまま、言った。

「あなたの携帯に、前から追跡アプリを仕込んでおいたのよ。浮気されないために」
「ついせきあぷり?」

 思わず声が裏返る。なんて怖い女なんだ。

「それって犯罪じゃ」と恐る恐る言うと、
「犯罪者は私じゃなくて、そもそも浮気をしたあなたでしょう。言っとくけど、別れないわよ。もしどうしても、婚約破棄するつもりなら、それなりの対価がいるわ」とさやかは言った。

「対価……って、結婚してもいないのに、慰謝料とるのかよ」


「ええ。私もう、結婚の予定がありますって、会社にも、親族にも、友人たちにも、みんなに報告してしまったもの。それをいまさらひっくり返すとか、どれだけ私の顔に泥を塗るつもり? 相当の支払いをしないと、弁護士つけて戦うわよ」


婚約をはっきりしてもいないつもりの僕だったが、とにかくさやかの怒りが尋常でないのがわかり、頭を抱える。そのときに、僕の後ろから真紘がひょいっと顔を出し、さやかに言った。

「心配しないで。この人、あなたの元へ帰るから。というか、私がちゃんと明日には返してあげる。だから、今日のところは帰って。マンションの玄関で騒がれたら、困るから」

「本当ね? 明日この人が来なかったら、今度は警察と踏み込むわよ」


さやかはきりきりと眉をつりあげてそう言うと、ふんっと鼻を鳴らして、とりあえず退散してくれた。さやかのヒールの音が、カツ、カツ、と外階段を降りていくのが聞こえて、僕はずるずるとドアを背にへたりこんだ。

「……真紘。俺のこと、返すの。返しちゃうの」
 真紘は、猫みたいな目をして、ちょっとふくれた。

「そうでも言わないと、あの人、帰らないでしょう。そもそも、彼女を置いて、こんな日がいつまでも続くと思ってるあなたが馬鹿なのよ」

ぐうの音も出ずに黙りこむと、真紘は言った。そして、僕の目をじっと覗き込むと、言った。

「で、あなたはどうしたいの。彼女のもとへ帰らないなら、私を選ぶの?」
「……うん」
「本当ね?」

真紘はたしかめるなり、床に落ちていた僕の携帯電話を拾うと、玄関脇の金魚の水槽の中にぼちゃんと落とした。「あ」と僕は言ったが、真紘はこともなげに言った。

「これでしばらく、雲隠れできそうね。さ、荷物をまとめるわよ」
「まとめるって」
「ここを二人で逃げ出すに決まってるでしょう。言っとくけど私、失踪のプロだから」
「しっそうのぷろ……」

どうして僕の周りの女は、さやかにしろ、真紘にしろ、こうも過激なのか。そして、真紘は何者なのか。そう逡巡している間に、さやかはさっさとボストンバッグをクローゼットから取りだして、着替えや下着をつめはじめた。

「俺、会社に連絡」
「そんなことしてる暇はないの。そこから足がつくでしょ」

僕は腹をくくった。ええい、もうなるがままにしかならない。僕らは最小限の荷物をまとめると、真紘の指示通りに、最寄り駅へと向かった。真紘がきっぷを二枚買うのを見て、声をかける。

「行くあてあるの」
「まあね。私にまかせて」


すぐにホームに電車がすべりこんできて、僕らは飛び乗った。電車はすぐに動き始め、見慣れた街がどんどん遠くなっていく。魔性、という言葉が真紘の横顔を見てよぎった。おかしいのは、さやかか、真紘か、それとも僕か。わからないまま、僕はじっと、車窓を流れる真夏の緑を、目をこらして見つめ続けていた。

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「……で、その先はどうなったの」
 さびれた街の、バーのカウンター席で、僕は気まぐれに昔語りをした。聞いてくれたのは、たまたまその日隣合った女性客だった。歳のころは二十代前半。僕と逃げたときの真紘より少し若いくらいだ。あれから五年が経ち、僕は今年で三十五になる。

「そのあとは、真紘の友達だという若手農家のところに身を寄せたんだけど、その農家の男が、明らかに真紘のことに気があるそぶりでさ。そいつと目と目でべたべたしはじめて、あっという間に俺、地獄を見た。真紘も、さやかも、俺も、三人とも最低だったっていう話。ま、若いときって、そういうことあるんだけどね」

「さやかさんとは、縁が切れたの?」
「うん、真紘を農家に残して、俺はとりあえず会社に無断欠勤謝って、さやかの実家にも菓子折り持って謝罪に言った。さいわい、親父さんが、示談金や慰謝料はいらないって言ってくれて、上手くさやかとは別れられたよ。さやかも、一度浮気をした男と結婚する気はしないって」

「へえっ。良かったね。なんか今の話聞いてたら、お腹がすいちゃった。マスター、ここって軽食出せるの?」

さっきから僕の昔話をカウンター越しに聞いていた、若い髭のマスターが口の端で笑う。

「ボンゴレ・ロッソにいたしましょうか」
「食べたーい」

無邪気に笑う女性客に苦笑いしながら、僕はウィスキーの水割りをあおった。結局いまでも誰とも結婚してない僕だけれど、記憶が風化していく中で、あの日真紘の家で見た、トマトの赤さだけは忘れない。あの赤は、きっとこの先も、忘れない。

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