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文章を書くことと、バイオリン|ショートエッセイ

先日、YouTubeで「ゆる言語学ラジオ」を見ていたら、まるで自分のことを見透かされているような、ぶっ刺さる話があったので備忘のために書いておきたい。

ぶっ刺さった話はこれ。

『ビジュアル・シンカーの脳』という本を紹介した雑談の回。
冒頭の堀元さんがなぜ「作家」を名乗っているかという話が、私が文章を書くのが好きな理由でもあり、さらにバイオリンを始めた理由と同じだった。思わず「私と同じぃ!」と画面に向かって叫んでしまった。

ここで作家を名乗りたい理由として話されていた内容は要約すると、以下の通り。

内的な複雑さを文章では表現しきれない。モヤモヤした気持ちの3割がやっと文章として表現できて、残りの7割は捨てられている。文章を書くということは、悲しい欺瞞に満ちた営みなのである。しかし、その割合を少しでも大きくできたら素敵。昨日30%表現できたものを、今日31%にできたら嬉しい。その喜びのために、一生「作家」を名乗っていきたい。

『ゆる言語学ラジオ』

私も、自らが発した言葉と、言葉にするとこぼれ落ちるものとの釣り合いがあまりにも取れず、愕然とすることが多い。

例えば、旅行に行って、その写真とともに一言コメントをSNSにあげるといった場面で、「楽しかった!」と書く時、掬い取れなかった多くの「気持ち」に思いを馳せ、少しだけ悲しい気持ちになる。
その悲しみは、「楽しかった!」のあとの絵文字をどれだけ凝ったものにしても、「!」をどれだけ連ねても、拭いきれない。

そういう時は、丁寧に自分の中の「モヤモヤした気持ち」と向き合い、日記帳などにしたためようと奮闘する。SNSには「楽しかった」でもいいとして、それだけの表現で終わらせてしまうと、なんだかこの「気持ち」たちとは二度と出会わないような、もったいない気がするからだ。

でも、どんなに努力しても、文章を書くという行為は欺瞞に満ちている。だからこそ、そこへの挑戦が「作家」的なさがを刺激し、知的興奮をもたらすのだ。

私が文章を書くのが好きな理由も、そこにある。

と同時に、やはりモヤモヤとした得体のしれないものを、その対極に位置していそうな「言葉」だけで表すことに、限界も感じている。

では、「言葉」以外を使うのはどうか。

言葉にならない感情を、言葉以外のもので表現する。そうすれば、指の間からこぼれ落ちた何かを、少しでも多く掬うことができるのではないか。

そんな思いもあって、私はバイオリンを習っている。
とはいえ、昔からの音楽の苦手意識のせいで、今は技術的にも心理的にも、まったくその領域に達していない。

私が突然バイオリンを習い始めた初期衝動のひとつに、「言葉で表現することの欺瞞」のようなものを克服したいという思いがあったことを、冒頭のYouTube番組で思い出した。

と、いうようなことを書き連ねる行為そのものも、こうした欺瞞を積み重ねることに他ならないのだが、冒頭に示したように自分自身の備忘のために書いておきたい。

そしてその欺瞞と闘うべく、私は「作家」マインドを持ち続け、バイオリンや音楽と向き合うのだ。

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