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青春の真ん中にTMがいた

私がムスメの年頃だったころ、つまり青春時代に毎日飽きずに聞いていたのは、TMネットワーク大江千里渡辺美里だった。(敬称略)

べつにEPICソニー縛りで聞いていたわけではない。
生まれて初めて好きになったミュージシャンが大江千里くんだったので、そこからTMネットワークと渡辺美里ちゃんへ導かれるのは王道だった。(敬称略はやはり無理(笑)。)
なにしろTMと千里くんが美里ちゃんに楽曲を提供したり、レコーディングでコーラスに参加しているのは有名な話だったし、逆に美里ちゃんがTMと千里くんのアルバムのレコーディングに参加することもあったし、TMがレコーディングに参加した千里くんの楽曲もある。ファンにとっては一粒で三度美味しい状況に、ヘッドホンをぎゅうっと耳に押し当て、バックコーラスに混じる推しの声をじっくり聴いたものだった。

ちなみにうちのオットは千里くんによく似ているので、ママ友からは「趣味がブレないね」と半ば感心、半ば呆れられている。特に『YOU』のプロモーションビデオと『乳房』というアルバムのジャケット写真に激似のため、それらを見たムスメが非常に困惑していた。大丈夫、ダディの封印した過去とかではないから安心して。

千里くんファンは中学の同じ学年に私を含め3人いたのだが、推し方は各自が壁打ち状態で、集まって盛り上がることはなかった。むしろ(ミュージシャン本人に)アウトローで一匹狼なイメージのある尾崎豊(敬称略)のファンの方が、集まって盛り上がっていた。興味深い。

さて、TMである。私にとってTMネットワークは生まれて初めてライブ(Fanks Bang the Gongツアー)に行ったミュージシャンであり、初めて仲間と推し活をしたミュージシャンだった。もちろん、当時は『推し活』という言葉はなかったけれど、やっていたことは今で言う推し活だったと思う。(具体的な活動については後述する。)

私がTMのファンになったのは「Self Control」がリリースされる少し前だったので、タイミング的には大ブレイク前夜だったと思う。彼らが大ブレイクするのはこの時点で既に必然的な状態だったので、ファンはその瞬間を坐して待っていても良かったのかもしれない。
けれど、初期からのファンの方々は、この「前夜」を迎えるまで、地道な宣伝活動に取り組んでいた。その1つがファンクラブの県単位の支部的なBuck Up Party(B.U.P)だった。新しいB.U.P.が出来るとオフィシャル・ファンクラブの会報に載っていたくらいだから、ファンクラブも彼らの活動に期待していたのだろうと思う。

松山にもB.U.P.があって、その名を「Paddington Club」といった。このパディントンはあの「くまのパディントン」のパディントンである。小室哲哉氏が当時好きだった(らしい)のだ、くまのパディントン。命名者である初代の代表のMさんは小室氏のファンだった。Mさんが大阪か何処かで遭遇した小室氏にPaddington Club宛に書いてもらったというサインは、私が譲り受けて、今も保存してある。

これがそのサイン。
缶バッジはファンクラブの入会特典。

私も小室氏推しだったのでパディントンのグッズを買ったりした。あの頃、パディントンのグッズは主にソニプラ(SONY プラザ、今のPLAZA)から出ていたのだが、松山でソニプラの商品が買えるのは銀天街という繁華街にあるA-Oneだけだった。A-One は数年前まで営業していたのだが、今は建物も新しくなりマクドナルドになっている。

他所のB.U.P.がどんな活動をしていたのかまでは知らないのだが、Paddington Clubでは月に一度、コピー誌の会誌を発行して会員に送付していた。
そこには有線放送へのリクエストのやり方やトップテンベストテンなどのランキング番組のリクエスト葉書の宛先、東海ラジオのSFロックステーションという小室さんのラジオ番組へのお便りの宛先などが記されていた。ちなみに松山ではベストテンは放送されていなかったし、東海ラジオはかなり電波状態が悪かった。(当時はradikoは存在していない。)しかも深夜1時〜3時の放送だったので、番組を聴けない人のためにまとめ記事を書いてくれる猛者会員もいた。
会誌の編集は会員有志が集まってやっていた。当時はパソコンはもちろん、ワープロも殆ど普及していなかったので全てが手書き。宛名も茶封筒にみんなで手分けして手書きしていた。
活動のあれこれがアナログすぎて、令和の若者には通じそうにない。Are you with me?(私の話についてきていますか?)

会誌には古参のファンの方々からの「TMのライブではこんな約束ごとがあります」のレクチャー、たとえばライブではアンコールはしないとか、終演時にレコード(CD)化されていない曲が流れるとか、その歌詞とか、宇都宮さんがある曲の間奏で連呼している呪文みたいなフレーズの耳コピなどなど……新参ファンにはありがたい内容が載っていた。他には会員によるファンアートも載っていて、今ならSNSで盛り上がるような内容を、当時は紙媒体でやっていたのだ。

月に一度の会誌の編集は、違う高校に進学したTMファン友人たちと顔を合わせる機会でもあった。彼女たちとはライブはもちろん、TMが主題歌を担当した映画「ぼくらの七日間戦争」を一緒に観に行ったり、今はなき×4(バツフォ)ビルという小洒落たビルで、CDショップ(Duke)の主催で月に1、2回開催されていたビデオコンサートに行ったりした。(ビデオコンサートというのは主にCBSソニーやEPICソニーのミュージシャンの最新のプロモーションビデオを上映するイベントである。今ならYouTubeで公開して済む話だろう。)

あの頃は同時上映というものがあって、
「花のあすか組」を観た後で
「ぼくら〜」を観たのだった。

古参のファンの方々は私たちより3〜5歳年上で、大学生や社会人だった。彼女たちを通して、私や友人たちは、大人の世界を覗き見ることができた。……と言っても、恋愛とかではなく、自らの意思(決定権)とお金で県外のライブに行く自由を手にした世界である。私たちは早く大人になりたいと思っていた。

やがて、進学や就職でPaddington Clubのメンバーは少しずつ欠けていった。その間にTMはスターダムを駆け上り、Paddington Clubはその役目を終えて解散した。
あれから幾星霜。TMの3人にもファンにも、言葉にできないくらい、いろいろあった(と思う。)
古参のファンの方たちとは音信不通になって久しく、友人たちとも会わなくなって10年〜15年が過ぎていた。

そして。
40周年を迎えたTMネットワーク。
再び、彼らのことを毎日のように目にするようになったある日。俳句甲子園の地方予選の会場で、なんとPaddington Clubの初期メンバーの1人(高校の先輩でもある)と再会した。友人以外のメンバーと再会するのは、これが(解散後)初めてだったので、めちゃくちゃビックリした。

彼女はある高校の俳句部の顧問として、そこに来ていた。会場にいる高校生たちは、まさに、TMに夢中だったあの頃の私たちの年齢である。なんとも感慨深い。そんな話をした。
あの頃、私たちの青春の真ん中にTMがいた。家と学校以外の居場所を作ってくれたのがTMだった。新しい世界も見せてもらった。
今でも3人が一緒に活動していてくれることが嬉しくて、こんなnoteを書いてしまった。

おまけ。

B'zの松本さんがTMのサポートメンバーだったことは有名だと思うけれど、B'zとしてデビューして間もない頃、B.U.P.の会誌の編集中にメンバーが「松ちゃんのユニット、売れるかな。どうかな。売れるといいね」と心配していた。あれより巨大な杞憂を、私は知らない。

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